翻訳ではなにをいっているのかわからず、人の話によるとドイツ語ネイティブの人でも原文は難解な文章であるという。そういうアドルノへの興味は新ウィーン学派の音楽を聴きだしたことにあったが、アドルノの文章を読んでみてもわからない。というわけで、1990年初頭ではもっとも入手しやすかったアドルノ入門書を読む。今回で2度目だけど、このような泰斗による解説を経由してもアドルノは難しいなあ、という感想。
序章 ・・・ アドルノの置かれた「星座」をあげると、1)ルカーチ経由のマルクス主義の生産性、2)芸術のモダニズム、3)マンダリン的文化保守主義(ないし文化的絶望)、4)ユダヤ人としての自己規定(半分ユダヤ人とのこと。重要なのはナチス時代にアメリカに亡命したことでアウシュビッツの惨禍を免れたことの罪障感とか有責感をもっているみたい)、5)脱構築主義の先取り的な引力、をあげられる。アドルノはこれらの流動的な結節点。またアドルノの思想のポイントを彼の言葉で語れば、「力の場」と「星座」をあげられる。とはいえ、「哲学は平易な言いかえに抵抗する思想」とアドルノはいうので、このまとめかたもかりそめ。
ある傷ついた生活 ・・・ 1903年生まれ、1969年没。ナチス時代にアメリカに亡命、戦後ドイツに帰国。主にフランクフルトの社会学研究所で研究生活。主著は「啓蒙の弁証法」「ミニマ・モラリア」「プリズム(プリズメン)」「否定弁証法」「美学理論」など。協力者はベンヤミン、ホルクハイマー、ハーバースタム、マルクーゼら。論敵はポパー、ハイデガー。戦後、新左翼に影響を与え、脱構築主義の先駆けとみなされる。同時代では影響力は少なく、年長者や年少者からは批判されたり黙殺されたり。そのあたりが「傷ついた」ということになるのだろう。
無調の哲学 ・・・ ぐっ、このような議論は苦手だ。主観―客観の設定で主観優位にするのも、客観優位の唯物論もどっちもよくない(理由は理解できない)、でもって客観の物象化が起こり、自然を支配し、人間を疎外する。とはいえ、過去に自然と人間の融和的な状況があり、そこから現代までは頽落の過程であるとみなすのはだめ。主観と客観の同一性を見るやりかたは抑圧的だから。むしろ非同一性こそ重要(ここが脱構築主義の先取りとみなせる論点)。でもってアドルノはなにかを構築することには興味はなさそうで、むしろ批判すること、否定することが優先。批判や否定の先にほのかに立ち現れるもの・ことが希望、とでもいうのかなあ。和音の終結を目指さない無調の音楽との類似はここにあるのかしら。
砕かれた全体性――社会と心理 ・・・ たぶん3つのことをいっていて、(1)社会分析においてアドルノはマルクス主義とフロイトの精神分析を使ったけど、必ずしも本家の通りにではなく変形させていた、本家の持っていたユートピア的な考えがアドルノにはなかったから、(2)社会はマルクスやフロイトの考えていたように階層構造があって全体が見通せるものではなくなっていると主張している、(3)歴史の線形に進むという考えには異論を持っていて、ある事件によってどこか別のところにぴょんと飛び、別の歴史が始まるという見方をしていた。その切断というか跳躍はフランス革命とかアウシュヴィッツに見ることができる。こんなところかしら。
操作としての文化、救済としての文化 ・・・ さて難問の文化論だ。重要な文章をメモしてみたが分量がある。長くなるかも。
まず、「文化」に想定されているのは3種類で、1)宮廷文化、2)19世紀のブルジョア文化(エリート主義、教養主義としての)、3)20世紀の文化産業。ドイツという国でしか成り立たない分類のように思える。アドルノはベルクに師事し作曲も試みているので(CDがでている)、音楽を取り上げる。
1.歴史的現象、沈殿した精神の再活性化、非概念的・非論理的な言語
2.音楽の発展には進化はないが、一定方向への進行がある
3.作品にある社会的な含意に注目し、ブルジョア社会の諸矛盾を暴露する機会となる
4.美的価値と社会的価値は切り離せない
とする。社会学としてのみかたになるわけ。そうした視点でドイツの音楽を振り返る。普通の音楽史と異なるので、面白い。まずバッハ。通例と異なるのは、彼が発展変奏の技法を完成したが、それは工業生産の分業化や社会の合理化に対応していて、音楽による自然支配の完成とみなせる。そうして社会の反映としての音楽はブルジョア文化の象徴としてのベートーヴェンで最高峰になる。ここの詳細は
アドルノ「楽興の時」に記載したので省略。その後はブルジョア文化がだめになっていく過程。その真の退廃がワーグナー。ライトモチーフの技法は広告に似た商品的機能をもっていて(○○が登場するとこのモチーフが流れる)、有機的全体化を構成する力は衰弱している。作曲者が主観的な展開を作品に込めることも不可能。ドラマの人物も自分で制御できなくなった物象化された諸力に降伏している(ジークフリートとかトリスタンとかアンフォルタスとかかな)。なので外からイデオロギー的正当性(「楽劇」概念だな)を与えないと持ちこたえられない。なので、社会変革の現実的な希望を一切放棄し(青年時代のワーグナーは自称「(社会)革命家」)、残酷な運命を必然として受け入れ(ブリュンヒルデとかイゾルデとかタンホイザーとかエルザとか)、侵略者と一体化する恐れがある(アドルノは「バイロイトが(ナチスの)夏の臨時首都」であった時代を知っている)。
アドルノはシェーンベルクを支持するが、ベートーヴェンまでの調性と全体性の破壊者であり、主観(主体でもあるのかな)の没落に伴う不安の表現として評価する。しかし、12音技法は主観が抹殺された社会で全体性を構築する試みであり自然支配の方法であるとも指摘する。なにしろアメリカ亡命後のシェーンベルクが民族主義など外部のイデオロギーで全体性を構築することがアドルノには気に入らない。どうやら彼の音楽の理想というかあるべき姿は、1920年代のモダニズム的アバンギャルド、とくに表現主義のようなのだ。主観が排除された不安に基づいていて、芸術と現実の生活の統一を拒否する。そしていつかユートピア的形態において模倣使用するような生活が到来する希望を堅持している。で、おのれを道具にしようとする試みに頑強に抵抗し、おのれの無用性で現実が道具的理性で人々と芸術を支配することを公然化するのである、表現主義芸術は。念頭にあるのはベルクの諸作品なのだろうが、どうやら自作品が典型であるのかも。
アドルノにとって芸術は
1.未来の政治的、社会的転換を指示するユートピア的契機が含まれている(もしかしたら、かつての人間と自然の一体化していた記憶を再現するかもしれない)
2.アウラは失っているが、それにもかかわらず外部の生産諸力の侵入に抵抗する
3.「真理(きたるべき真の社会の参照を求める規範的な概念」を指し示す認識上の資格を持つ(どうやら学問にはその資格はないらしい)
4.美的経験が理論的反省になることが望ましい。
ということになる。
このまとめでは「文化産業」も、ベンヤミンと論争した「模倣(ミメーシス)」などは省略。というのもこの本では「啓蒙の弁証法」「否定弁証法」をほぼスルーしているから。
アドルノの書き方の特徴は、ある論文やエッセイの一本を読んでそこに思想が集約されているようにはなっていないこと。一本の論文やエッセーには多重なリンクが張り巡らされていて、リンク先までたどり、それを読むことが必要。リンク先の主張はもとの論文やエッセーと同じことを繰り返しているようで、しかし少しずつ差異のある主張が述べられている。しかも別の視点で語られていたりもする。そういうたくさんのリンクと差異の関係の中からなにかアドルノの思想がほの見えてくるような感じ。コンサートホールでときに箱鳴りが起こると、演奏家の出している音とは異なる音(ホールが共鳴して倍音をいくつも発しているのだ)を出すことがあり、それは録音できない。アドルノの思想というのはそういう風にしか見えてこないものかしら。「星座」というキーワードはこんな感じで理解するといいのかな。
著者がスルーした「啓蒙の弁証法」はアドルノの本の中では珍しく多重リンクが張られているものではなくて、その本の内部の参照関係で語りつくされている感じがする稀有なもの。なので、あえてここには収録しなかったと思う。かつて読んだときには、文化産業やセイレーンとオデュッセイの話が面白かった記憶があるが、もう忘却の河を渡っている。
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