odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

テオドール・アドルノ「楽興の時」(白水社)-2

 続いて後半。

クシェネックの観相学のために1957-8 ・・・ クシェネック(1900-1991)は知らない作曲家。下記で詳しい。「クレ(ー)ネク」「クシェ(ー)ネク」「クジェーネク」「クルシェネク」など表記は揺らぎがあるみたい。アドルノの同世代人にあたる。
エルンスト・クルシェネク - Wikipedia

マハゴニイ1930 ・・・ 「マハゴニイ」とあるけどたぶん1930年初演のオペラ「マハゴニー市の興亡」。不評と悪評にまみれたと聞くが、アドルノのこれは数少ない支持なのだろう。「マハゴニー市の興亡」は聞いたことがない。ただ、「アラバマ・ソング」だけは知っていて、これはオペレッタの歌手だけでなく、ドアーズやデビット・ボーイなどがカバーしている。
ロッテ・レーニャ
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 ロッテ・レーニャはもっと若い1930年代の録音をお勧め。

Die Dreigroschenoper; Berlin 1930

Die Dreigroschenoper; Berlin 1930

 1950年代のアメリカ録音もある。
Sings Kurt Weill

Sings Kurt Weill

  • アーティスト: Orchestra,Ernst Poettgen,Kurt Weill,Wilhelm Brückner-Rüggeberg,Roger Bean,Lotte Lenya,Julius Katona,Fritz Göllnitz
  • 出版社/メーカー: Sony
  • 発売日: 1997/12/09
  • メディア: CD
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ドアーズ
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デビット・ボーイ
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Marilyn Manson
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panta
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ツィリッヒのヴェルレーヌ歌曲集1961 ・・・ シェーンベルクの弟子のツィリッヒ賛。知らない作曲家なので、まとめられない。

反動と進歩1930 ・・・ アドルノは音楽が進化するというのだが、どうもよくわからない。内在的な一貫性によって音楽が進化するのであるが、その進化は(1)作曲家個人の作品の深化、ひろがり、(2)過去の作曲家を現在の作曲家が乗り越え、未来の作曲家によって乗り越えられる、(3)作曲の方法や技術が多様化・複雑化していく、のいずれなのかがわからない。

シェーンベルクの「管楽五重奏曲」1928 ・・・ この作品は12音技法でもっぱら語られてきたが、ソナタ形式を見事に表しているよ、という。聞いたことのない作品なので、なにもいうことがない。

異化された大作「ミサ・ソレムニス」によせて1959 ・・・ ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」ってなんか変だね、というのはだれもが持つ感想(たぶん)。それを文章化しようという試み。ただ、俺にはこの文章はよくわからん。えーと、気になるところを箇条書きに。・この作品は、晩年様式の特徴をもっていない。・主題操作(まあ変奏とかソナタ形式とかかな)がなおざりで、無変化なまま再現。・一度聞いて覚えられる歌がなく、なにかを表現することを避けている。・美的には破たん(終結部があいまいで、力動に欠けている)。・他のミサ(バッハなど)にみられる肯定とか救いの表現はなく、むしろ絶望を際立たせる。・神話的な深淵(たぶん存在の否定性)に既成の宗教に救いを求めているが、一介の人間の自力で抑えきる自信を失っている。・クレド(信条告白)では自分に言い聞かせているような調子。・中期のベートーヴェンにあった交響的なまとまり、個々の部分の運動から生じる全体性などに信憑性を与えていたものが疑わしくなった。・その点ではこの作品は分裂と裂け目。・ベートーヴェンは市民精神の代表格であり、市民精神の限界に行き当たりながら、市民生活の枠の中では自力でそれを乗り越えることができなかった。このあたりか。アドルノは「ミサ・ソレムニス」がこのような特徴があるから失敗作、駄作であるといっているのではなく、むしろベートーヴェンの作品では例外的な分裂や裂け目、破たんを見せているからこそ、そこに市民精神と市民生活の深淵を見る重要な作品としていることに注目。

 最後のベートーヴェンのところがよくわからない。あとに「ベートーヴェン 音楽の哲学」(作品社)という大作がひかえているのに(泣)。マーティン・ジェイ「アドルノ」(岩波現代文庫)を読んでいたら、このエッセイを参照してアドルノベートーヴェンの考え方をまとめているのでメモ。
 その前提になるアドルノの音楽観や音楽史マーティン・ジェイ「アドルノ」(岩波現代文庫)の感想にあるので参照のこと。アドルノによるとベートーヴェンブルジョア文化の象徴であって、ダイナミックにおのれを展開する(自律発展、自己生成するものとして)全体性を獲得できた。技法は発展変奏の大家であって、バッハが開拓した技法の集大成で最高峰。このような弁証法的な全体化を達成したのは中期のベートーヴェンである(特に作品をあげていないけど、交響曲第5番とかラズモフスキー弦楽四重奏曲とか「熱情」「ワルトシュタイン」あたりを想定しているのかな)。ところが後期になると「ベートーヴェンの晩年様式」にもあるように、このような全体性が失われる。すなわちそこにはナポレオン敗北時に生じたブルジョア文化が勢いを失ったこと(ブルジョアの希求する自由が制限され、自己規律を実現する文化が大衆文化で乗り越えられようとしているからなのだろう)が反映している。上記にあるような「ミサ・ソレミニス」の「異化」は、全体性を作品に求めても確信がないので、アレゴリー的な脱全体化にあたるのだ、ということだそうだ。
 その背景には、ベートーヴェンおよび彼を支えるブルジョア文化の押し付けがましさとか暴力性があり、イデオロギーとして働いて社会情勢にあわなくなると陳腐に化すような危機をはらんでいたとみなせるから、だそうだ。
 諸井三郎やロマン・ロランのように後期においてより深い高みの上った、それはブルジョア精神の最高の表現なのであるという見方とは異なる。まあ、後期になると、芸術→ブルジョア文化の危機が反映され、教養主義的・エリート主義的な文化が衰退する。代わりに現れるのが、大衆文化であって、20世紀の文化産業により人間の主観性が喪失し文化感受性を退化させていくということになる。ユートピアを求めながら、超歴史的な果てにおいてしか実現しないだろうという「絶望」の考えから描かれたものだな。