odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

テオドール・アドルノ「楽興の時」(白水社)-1 「ベートーヴェンの晩年様式」「異化された大作『ミサ・ソレムニス』によせて」は必読論文。

 最初に金になった文章が音楽評論であるという著者の、若い時から晩年までに書かれたエッセイを収録。哲学や音楽の専門家を読み手に想定していないので、とっつきやすい。「音楽社会学序説」「不協和音」からアドルノに入るものいいけど、これのほうがいいのではないかな。文庫におちていないのがもったいない。

ベートーヴェンの晩年様式1937 ・・・ 「晩年様式」はだれか別の人の観念なのかな。ここではその詳細を語らないのでよくわからない、でもベートーヴェンの作品番号100以降の作品を思い出せばなんとなく「晩年様式」は「わかる」。で、著者のいうには「老年」において、形式とか様式は形骸となってしまい、調和や統合は失われる。しかしそこから個人性がにじみだし、生と死のアレゴリーとなる。たぶんこんな感じ。
(最後に収録された「異化された大作「ミサ・ソレムニス」によせて」が晩年様式の詳しい説明になっている。)
<参考エントリー>
odd-hatch.hatenablog.jp
odd-hatch.hatenablog.jp


シューベルト1928 ・・・ 25歳の文章か、すごいな。シューベルトで一冊書いてくれればよかったのに。それくらいにここにはアイデアが詰まっている。この作曲家の特質は、活動意思ではなく巡回する旅(さすらい人)、発展や歴史性ではなく遠近法と非歴史性、変わらないものではなく大局を変えない範囲での変化、制作ではなく生育(それも鉱物の結晶性)、ソナタではなく接続曲(ポプリ)、対位法ではなく和声、自然讃歌ではなく深みへのデモーニッシュ、発展や媒介のない唐突な転調。

ツェルリーナへのオマージュ1952-3 ・・・ 静止状態にある歴史の比喩(P48)としてのツェルリーナ(「ドン・ジョバンニ」のキャラクター)。

魔弾の射手の諸形象1961-2 ・・・ ドイツの国民歌劇としての「魔弾の射手」。性格描写にはモーツァルトに及ばず、楽曲の細部の書き込みはワーグナーに及ばないにしても、ここにはドイツがあって、その重要なポイントは「森」であり、「躍動(エラン)」である、とのこと。

ホフマン物語1932 ・・・ オッフェンバックのオペラの賛。エッセイが書かれた時代にオッフェンバックリバイバルがドイツにあったとどこかで読んだ記憶があるけど、誤りかなあ。

パルジファル」の総譜によせて1956-7 ・・・ ワーグナーの問題作・代表作というと「トリスタン」「指輪」をあげることが多いが、20世紀の音楽には「パルジファル」のほうがより重要であるよ、というエッセイ。移行から静的なものへ、輝きや豊かさから簡素で薄明の響きへ、高揚から寂寞へ。これらの「ユーゲントシュティール様式」を継承したのはドビュッシーペレアスとメリザンド」。ほかにマーラーに新ウィーン学派などなど。ワーグナーでひとつだけと聞かれれば「パルジファル」と答える自分には、はたとひざを打つ(死語)好エッセイ。

夜の音楽1929 ・・・ 同じタイトルでジャンケレヴィッチが音楽論を書いているが、アドルノのいう夜は、音楽・芸術が鑑賞されずに消費される20世紀の世相。「音楽社会学序説」ほど練れていない。

ラヴェル1930 ・・・ アドルノはキャッチコピーの名人だな。ラヴェルのことを「鳴り響く仮面の大家(P87)」で、「神童の音楽(P94)」で、「彼の印象主義は自ら遊びと理解している(P90)」とのこと。ドビュッシー子供の領分」とラヴェルの「マ・メール・ロワ」とストラビンスキーの何かで、彼らの「こども」を区別するところがおもしろい。

新しいテンポ1930 ・・・ このエッセイ、俺には意味がよく取れない。たぶん当時の「新即物主義」の演奏家古楽リバイバルの研究家が速いテンポで演奏することを批判しているみたい。その根拠は、作品の解釈には歴史性があり、繰り返し演奏され本質吟味を経たうえで残された伝統は重要。楽譜には本質が表現しきれていないから楽譜とその指示を順守するだけで設定するテンポには恣意的である。シェーンベルクが行ったように、作品の構造解釈を丹念に行ったうえでテンポを設定るするならばそこには根拠がある、だって。ずいぶん穴のある議論に思える。アーノンクールレオンハルトが読んだら激怒するのではないか?(たぶん既読だとおもうけど)

ジャズについて1937 ・・・ いわずもがなだけど、この時期のジャズはビッグバンドでスウィングでダンス音楽だった。ビバップはまだ現れていない。あと、ドイツは西洋では最もジャズとタンゴがはやったところで、今でもこれらがよく聞かれるところ。そういう場所はあとこの国くらい。でもアドルノがジャズを見ると、音楽史は何か別のものになってしまう。ジャズの源にはドビュッシーがいる(全音階、シンコペーション、和声など)というし、ジャズの語法をしっかり備えているのはストラビンスキーだけというし(ラヴェルは?ワイルは?)。ジャズがサロン音楽と行進曲になるというのはその通りで、ジャズを楽しむのはジャズに自己を同化することで、クラシック音楽のように距離をおいて鑑賞するのではないというのもこの時代ではそう。このあとジャズも鑑賞するものに一時期なったけど。むしろアドルノのみたいのはジャズを通じた社会のほうか。ジャズには名前が刻印されて個性があるように見せかけているが、制作の現場は分業化されて一律千藩の同じものがコピーされているとか、聞き手もジャズに同化して自我を共同体とかトポスとかに同化していくとか。文化産業と社会の管理化の典型を見ていたのだろうな。

 長くなりすぎたので、ここでいったん切ります。


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2012/11/08 テオドール・アドルノ「楽興の時」(白水社)-2に続く