クルト・リースはドイツ生まれのジャーナリスト。ナチス政権時代にスイスに亡命。1945年1月に亡命(?)してきたフルトヴェングラーと出会う。戦後の指揮者の非ナチ化裁判に尽力するなどして、彼との交友を深めた。ここらへんはカルラ・ヘッカーに似ている(この本にカルラ・ヘッカーは登場しないが)。さて、この副題「音楽と政治」がつく書物が書かれたのは1952年と思われる。指揮者の生前に出版されたのであるが、それはシカゴ・フィルが指揮者を招へいしようとしたとき、アメリカ在住の亡命演奏家たちがボイコットの声明を発表したからであるだろう。西ヨーロッパでは彼に向けた非難はようやく下火になり、フランス・イタリア・イギリス・デンマーク・エジプトなど精力的な演奏活動を続けていたとき、指揮者を拒否するのは民主主義の国の人々であった。それに対する反論本という位置づけになる。実際に、この本では指揮者の行動と発言は詳細であるが、演奏そのものの記述はあっけない。彼がいかにナチスに抵抗したか(ゲーリングなどが企画する演奏会を拒否するとか、ナチス式敬礼を一切行わないとか、ユダヤ人その他の弱い人々の除名嘆願書を繰り返し提出したとか、ときには自分の秘書役に雇用したとか、占領地には一切演奏で訪れなかったとか)、ナチス高官の脅しに屈しなかったとか、公然とナチス批判を口にしたとか、そういうことが書かれている。この国への紹介は1959年。丸山真男、吉田秀和らには衝撃的な内容だったとみえ、雑誌「みすず」でこの本を種にした対談が同時期に行われている。
フルトヴェングラーの1930-45年をこの本を使って祖述すると、
・1930年ジークフリート・ワーグナーの死去により、バイロイト音楽祭の実権は妻ヴィニフレッドが掌握する。彼女は政権奪取以前からのナチ党シンパ。ときに、ヴィニフレッドとアドルフの婚約もうわさされた。
・で、ヴィニフレッドは音楽祭の目玉にフルトヴェングラーを立てようとするが、指揮者は拒否。ここらへんからナチとのぎくしゃくした関係になる。
・政権奪取後、ナチスは文化政策のアイコンとしてフルトヴェングラーを起用しようするが、指揮者は拒否。決定的な亀裂は「ヒンデミット事件」。
・とはいえ、指揮者はドイツにとどまり、ドイツ文化、そしてオケおよび楽団員を守るために国内にとどまることを決意。
・上記のような非協力的な態度をとり(まず彼以外にはなしえない行動)、様々な人を助命したが、その報道はなされず、国外からはナチスの報道の通りにナチの御用指揮者とみなされる。
・戦況悪化後もこのような行動をやめなかった(ときにゲッベルス、ヒトラーとの会見を申し込むこともあった)ので、敗戦直前にはブラックリストにのっていた。そしてシュペーアのささやきやアンセルメの誘いなどがあって、1945年1月にスイスに亡命。
・このような活動が戦後、ナチ協力の疑いになり、約2年間の演奏禁止処置を受ける。その間に作曲をおこない、1947年5月25日にベルリン・フィルの復帰演奏会を開く。
さて、主題の「音楽と政治」について。自分の妄想を書いておこう。
芸術は意味を探求する行動であって、それを獲得する行為を「自由」ということができる。意味はもちろんこの<私>に関することで普遍性を持たない個別な内容をもっている。なので、ときには共同体や国家の規範と衝突することがある。擬似的な死を経験することとか(sexとかスピードとか落下だ)、法悦境に上り詰めることとか(宗教だったりドラッグだったり)、規範を破ることであったり(革命や暴動だ)。芸術がときに破滅的であったり、反社会的であったりするのは、意味を求める欲望には制限がないことにある。
で、社会の体制を大まかにのべると、1)自由主義:この種の自由を認め、成功も失敗も個人が引き受け社会はできるかぎり個人に介入しない、2)民主主義:共同体や組織の「一般意思」を実現するためには、社会は個人の自由を制限できる、3)社会主義:共同体や組織の平等の実現を達成することが目的であり、個人の自由よりも社会の規範が優先される(ここで社会主義は共産主義や社会民主主義だけではないよ、ファシズム、国家社会主義、ナチス、軍国主義が含まれるのだよ)、と分けられる。とりあえずこの分類はアメリカ革命やフランス革命後の近代社会に適用するもの。それ以前の封建社会とか王朝制とかは無視します。で、芸術は政治をたいていは無視する。自由を実現するときに、政治の要求する規制や制限は突破するものだからね。なので、芸術が政治に介入することはない。では政治の側から見た時に、自由主義と民主主義は芸術にたいして無頓着、無視、あるいは寛容であろうとする。そこでは芸術と政治の問題は生じない(「芸術」の名目で行われる器物破損や権利の侵害などの個人や集団の行為は刑罰の対象になるけど)。ただ、社会主義は芸術を管理・制限する。なんとなれば、社会主義が目的とする共同体や組織の平等に対して、芸術の自由が異議を唱え、社会主義の「一枚岩」状況に異を唱えるから。なので、芸術に介入し、不寛容である政治は社会主義において。問題を矮小化するかのもしれないけど、芸術と政治の問題が生じるのは社会主義(全体主義のほうがわかりやすいか)においてだけ。すくなくとも過去200年においてはそうだった。ついでにいうと、社会主義(全体主義)の政治指導者は、1)芸術センスが悪い、言い換えれば人気のある=ポピュラーな芸術しか認めない。個別的・前衛的なもの、自由主義的なものには嫌悪を持つ、2)芸術=意味の自由に寛容でない、3)芸術を規律や監視の道具として使用する、4)歴史をねつ造して権威を持たせる、という特徴を持つのでよく覚えておくように。戦後(まあ1970年ころまで)のこの国の保守政治家は前衛芸術を「ワシにはわからん」といっていたぶん、社会主義(全体主義)からは遠いところにいたといえる。芸術や伝統にどのような態度で臨むかは政治家の考えのリトマス試験紙になるなあ。後半脱線。
フルトヴェングラーは、理想主義者であって、芸術が垣間見させる「自由」の王国(それは無限に遠いもので、はるか未来かきわめて距離の離れたところにある、垣間見えた途端に瓦解するはかないものであり、自分の生きている間には決して実現しない)が現実を変える力を持っているという考えの持ち主。指揮者に即して言えば、その自由の「王国」は指揮台のうえにいるときに立ち上ることはあり、指揮者はリアルに感じるが、聴衆ははるか遠くに仰ぎ見るもので、指揮棒がとまるとき消滅する。指揮者の感じるリアルが強くて、彼はそれが現実を変える力を持つ、ないし現実に抵抗する力があると信じた。そういう古いイデアの人だったのだ。ワルターは自分が殺される可能性があることをベルリンやウィーンで体験して(党幹部や市井の市民からの脅迫を何度も受けた)そういう観念から遠ざかったし、すでにムッソリーニと対立してきたスカニーニは芸術の自由(という理念)が社会主義(全体主義)の権力には勝利できないと悟っていた。まあ、こんな図式にしてよいかな。あとは、積極的に追従したクレメンス・クラウスやフレンニコフに、社会主義(全体主義)を利用しようとして利用されたリヒャルト・シュトラウスと、シニカルな道化を演じ本心をカモフラージュしたショスタコーヴィッチを加えると、芸術と(社会主義・全体主義)政治へのかかわり方のスペクトルを端から端まで見通しできるでしょう。
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〈追記2023/12/24〉
中川右介「戦争交響楽」(朝日新書)から
ウィーン・フィルハーモニーの関係者によると、フルトヴェングラーの出演料は、ベルリン・フィルハーモニーからのものは妻の口座へ、ウィーンからのものは愛人たちの口座へ送金されていたという。フルトヴェングラーには多くの愛人がいて婚外子がたくさんいた。その数は本人にもよく分からないらしいが、確認できるだけで十三人という。彼にはこの子供たちの養育費を稼がなければならない事情もあった。国外での仕事がなくなれば、愛人とその子供たちは生活できない。この大指揮者が亡命できなかった理由のひとつが、この扶養家族の多さにあった。(P143)
とのこと。フルトヴェングラーが亡命しなかった理由は他に、高齢の母の介護のためとする説もある。
ベルリン滞在中の三七年一月二日に、近衛はフルトヴェングラーに呼ばれ、自宅を訪ねた。菅野冬樹著『戦火のマエストロ近衛秀麿』(NHK出版)によれば、アメリヵヘ亡命したいのでストコフスキーと話をつけてくれと頼まれたという。近衛がストコフスキーに取り次ぐと、彼は快諾したのだが、フィラデルフィア管弦楽団の共同監督をしていたユージン・オーマンデイ(一八九九〜一九八五)が「ナチスに加担した指揮者をアメリカへ迎えることはできない」と反対した。ユダヤ系であるオーマンディとしては許せなかったのだろう。(P173-174)
とある。1930年代にニューヨークフィルはフルトヴェングラーを招きたがっていた。一度呼んだときにはナチスが横やりを入れて招聘をやめさせてしまった。それでもフルトヴェングラーはドイツを逃れる方法をさぐっていたようだ。