odd_hatchの読書ノート

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諸井三郎「ベートーベン」(新潮文庫) 戦前に活躍した邦人作曲家はベートーヴェンの晩年様式を「宇宙的人間の霊的感情の映像」とみる。

ベートーヴェンは、一生を通じて貧困、失恋、耳疾、肉親の問題などさまざまな苦しみと戦いながら、音楽史上に燦然と輝く数多くの傑作を創造した。苦渋の生涯から生まれたそれらの音楽は、人々の心に生きる勇気を与える。本書は、作曲家として、また教育者として画期的な業績を残した著者が、天才の精神のドラマの跡を丹念に辿り、その偉大な芸術の本質に分け入った名著である(裏表紙のサマリ)」


 1948年初出の本を1982年に新潮文庫が復刻。手元にあるのは文庫初版。著者のまとめが興味深いので、摘出してみる。「」内は著者の言葉。
・生涯を一貫して流れている思想は「人間精神の解放」。
・彼の生涯は3期に分けられる。1期と2期の間には耳疾(ハイリゲンシュタットの遺書が全文引用される)があり、2期と3期との間には甥カールとの確執がある。これらの心身、生活の危機を乗り越えることで彼は精神的に充実していった。
1)1期の作風は、「闘争」と「英雄主義」と表現できる。この特長は「悲哀感」と表裏一体となり作品によっては「悲愴美」となっている。
2)2期はまさに「人間精神の解放」と「英雄主義」の全面開花。「秩序」を愛好すると同時に「自然ならびに素朴なもの」も愛好している。これらを同時に感じることにより「根源に対する認識と感情を呼び起こす」。これらは外に向かって表出されるが、ときに相手を忘却していることもある。
3)3期は「精神は俗世界から上昇しなければならない(ベートーヴェンのことば)」のように「精神そのもの」に帰っていく。「闘争の内面化」が行われ、ついには「闘争自体からの離脱」が行われる。ここでは「外界の存在は忘却されてき」て、「深い内省」「強烈な内面化」により、すべてのことがらを自分の責任と義務として受け取る。第2期の闘争は「内心の確信」に昇華し、秩序への愛は「宇宙的な規模」になる。憩いの感情は「祈りの感情」にとってかわり、祈りが高調し強烈な歓喜となるとき、彼の「人間精神の解放は達成される」。
4)第2期は「意思的な人間の熱情の建築」であり、第3期は「宇宙的人間の霊的感情の映像」である。
 以上が諸井三郎(1903-1977)のみたベートーヴェン。生涯と作品と思想を研究したうえでのまとめ。半世紀前のベートーヴェン理解の典型をみるよう。上記のようなベートーヴェン像はたぶん吉田秀和「LP300選」のベートーヴェンの項にもみることができると思う。まじめだったのだなあ。襟を正してベートーヴェンを聴くべし、彼のように刻苦勉励すべしというのがこの人の見るベートーヴェン。この本も戦後のこの国の人々への同じメッセージだったのかしら。
 2011年の素人の意見からいくつか指摘すると、
・冒頭の18世紀を封建社会と規定し、都市民も農民も搾取され貧困にあえいでいる。もちろん音楽家≠芸術家もそれに含まれる。一方、アメリ憲法フランス革命のように市民が誕生し民主主義が生まれてきたが、遅れたドイツにはその矛盾が集中している。このような歴史認識は図式的に過ぎて(マルクス主義の影響大)、当時の多様性を押さえることができない。そうでないと、モーツァルトハイドンを体制御用達の遅れた作曲家とみなしかねない。
・彼の作品がほぼ独力で作られ、作曲技術の向上も一人の成果とみなすのも一面的。彼の同僚やライバルであるフォーグラー、ディッタースドルフ、シュターミッツ、シュポーア大バッハの息子たちなどの影響もみないと。まあ、執筆当時は録音がなく、楽譜を見る機会もなかったろうから仕方ない。(うれしいことに今ではたくさんの録音が販売されている。比較視聴すると、ベートーヴェンの、とくに初期の作品は彼らの作品とほとんど差異のないところにあることを知ることができる)。
・ハイリゲンシュタットの遺書を苦悩と苦痛の克服の書とみなすようだけど、マイノリティであることをカミングアウトする決心をした文章とみてもいいのではないかしら? この直後からの明るい作風と自然描写なんかは、秘密を隠すことから解放されてほっとした気分の反映のように思える。あまり哲学や思想の言葉で解釈しないほうがいいんじゃね。

 諸井は1932-34年にボンに滞在(音楽留学)。ベートーヴェンの生家を訪れた経験があり、本書にも記載(振り返ると、本論よりこちらの記述のほうが印象的)。中島健蔵とおさななじみで、戦後に一緒に活動したことがある。たくさん作品を書いているが、録音されたものは少ない。自分は交響曲第2番をもっているくらい。NAXOSで数枚のCDがでているのが現役盤の様子。
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