odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

トマス・スターリング「一日の悪」(ハヤカワポケットミステリ) 死期が近づいた富豪が3人を招待して相続人になるかもとほのめかす。殺人が起き、互いが告発しあう。

 ベン・ジョンソンの古典喜劇「ヴォルポーニ」が下敷きになっている、のだそうだが、どうやら翻訳はない模様。

 とりあえずサマリーを劇のように書くとだな。
序幕--ヴェニスに住む富豪が別々のところに住む3人に招待状を出す。死期が近づいてきたが、身寄りも子供もなく、思い出すのはきみたちばかり。というわけで、アメリカの富豪の息子にイギリス貴族の息子(ともに老人)に、オールドミスの資産家が若い娘を秘書というかメイド代わりにしてヴェニスにやってくる。あと、ヴェニスの富豪フォックスは秘書にアメリカ人の役者ウィリアムを雇う。
第1幕--招待客の登場。秘書ウィリアムは彼らに遺産相続人が決まっていないが、「あなたの名を書くらしい」とほのめかす。最初の晩餐、オールドミスが「フォックスは私の夫」と爆弾発言。
第2幕--招待された二人の老人が談合。ウィリアムはメイド役のシリアを誘って、自分の登場する映画を見に行く。深夜に帰宅したとき、オールドミスは睡眠薬を過剰摂取して死亡。
第3幕--警察の捜査。訊問された老人は互いに相手を殺人者と告発(ここはまるで囚人ゲームそのまま。それぞれ黙秘すれば利得は最大になるのでに、自白して総取りを目指して、最悪の結果になる)。シリアは訊問中に真犯人に思い当たる。
第4幕--フォックスは最初から健康体。すべては芝居。でも、内幕をシリアに告白し、秘書役のウィリアムに幕引きをすると指示。その翌朝、睡眠薬を飲んだフォックスの死体が発見される。
プロローグ--遺言書の発表とこの事件の総括。
 例によってうまくだまされてしまったので、負け惜しみの感想。
 ミステリの歴史は、テクニックと設定の開発に余念がなかった。最初に生まれたのは、「誰が犯人か」であって、思いもかけない犯人を設定していたのだった。アイデアが出尽くすと、次は「どうやって事件を作ったのか」になり、「なぜ犯罪を犯したのか」も開発された。犯人に関するwhoとhowとwhyの探究ですね。ここらへんは黄金時代のミステリ作家が盛んに追及していった。次の世代である40-50年代の作家になると、ちょっとひねることになる。パット・マガーのように「被害者は誰?」「探偵は誰?」「目撃者はだれ?」なんてのもあるけど、これは一発芸のようなもの。そこで「犯罪計画を作ったのは誰?」「どうやって犯罪計画を実行したの?」「なぜ犯罪計画を作ったの?」なんてのがでてくる。この小説とか、「わらの女」、「シンデレラの罠」みたいなのかな。そのあとになると、「誰が書いたのか?」「どうやって書いたのか?」「なぜ書いたのか?」などの話者に関する設定のひねり方が出てくる。もちろんその設定だけでなく、さらに「犯人は誰?」「どうやって?」も追加されるので、ミステリはより複雑になってくる。ブレイクのこれ、法月のそれ、クリスティのあれ、クイーンのあれ、笠井の「天啓」シリーズなど。ま、作家の仕掛けを見抜いたことなどないんだけれど。
 「一日の悪」は、凝った設定で、凝った仕掛けが満載。一人も善人がいないし、みんながうそつきだし。誰かに感情移入してミステリを読むのは危険ということを教えてくれました。上のようなサマリだと、読みなれている読者は仕掛けを見抜いてしまうかも。ともあれ、ストーリーの進み方が黄金時代のミステリと違うのがいいですね。こういうところにひかれてミステリーマガジン編集長の都筑センセーは翻訳を決意したのでしょう(アメリカで販売された3年後に翻訳。解説が都筑道夫)。センセー自身の初期長編も凝った設定と凝った仕掛けで、黄金時代ミステリとは一線を画していたから。
 そのうえで面白かったのは、オールドミスの相手人である20歳のシリアのこと。彼女は子供のころに両親を亡くし、祖母の手で育てられたが、小学生のうちに祖母は倒れ、彼女は介護することになる。今の仕事も半分死にかけた(と本人が思い込んでいるだけの)老婆の世話。というわけで、シリアは「死」が日常的で特別なものではないという認識をもっている。なので、オールドミスの死にも動揺しないし、初めて男(ウィリアム)から誘惑されたことに戸惑っている。それは彼女にない「生」からの誘いだったから。フォックスという詐欺師はシリアに「お前は自分の同類」というのだが、顔色変えずにペテンをやってのける才能をもっているという見抜きもあるだろうけど、「死」を日常的にみる生きている死体のようなものということでだろう。最後に、フォックスの指摘によって、シリアは生の可能性(リスクもあるが、それゆえに美しい)という<意味>を見出す。ここの「改心」の描写が印象的。たぶんほとんどの人が読み流す30行くらいは「実存主義」哲学の解説に引用されるべき中身を持っていた。いまどき実存哲学を学ぶ人がいるとは思えないけど。