odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

廣重徹「科学の社会史 上」(岩波現代文庫)

 これもなーつかしいなあ(by佐藤允@独立愚連隊西へ!)。いまは廃刊になった雑誌「自然」の連載が中公自然選書になり、これも品切れになって岩波現代文庫で刊行された。残念なのは、中公自然選書に載っていた写真が削除されたこと。戦前の多くの研究所、大学、研究者、政治家などがのっていた。
中公自然選書(左)と岩波現代文庫(右)
   
 さて、科学史は通常学説史または個人史の集積として扱われる。この本での問題意識は「科学」がいかに、社会とのかかわりをもっていったかということ。「科学」と呼ばれるとき、その対象は大きい。方法や成果だけではなく、科学と実践する集団とそれに金と口を出す集団があり次世代の科学者を養成する集団がある。あわせて科学の成果を利用する、あるいは被害にある集団もある。こういう集団とのかかわりがこの国ではどのように行われたかをこの本で検討する。
 もともと「科学」は少数の人々で行われてきた。生活に余裕があるものが余暇の楽しみとして行ったり、職務に近い範囲の研究を行うものだった。通常は個人の負担で研究がなされ、ときどき金持ちのパトロンや国家が博物学冒険に資金を提供したりするものだった。18世紀の産業革命でも「科学」は主役になっていない。ここでは技師や職人などが各自の創意工夫と連携で機械を生み出してきた。19世紀になってから「科学」は、国家と企業の注目を浴びる。最初は合成化学。染料その他の化合物を合成し、儲けを得る企業が現れてから。企業、国家などが着目し、科学に資金提供を行うようになる。このあたりの国家や企業に科学が取り込まれていくことを「科学の体制化」と著者はいう。そこには、象牙の塔に閉じこもる科学者集団というのは見えてこない。むしろ職業として採用されるように運動したり(大学理学部や官営研究所の設立を働き掛けたり、大衆向けの講演会を開いて動員したり、知見を発表するアカデミー・学会・論文雑誌を刊行したり)、官僚自身になって体制化を進めたり、次世代の科学者・研究者・技術者を養成する体制を作ったり(「教科書」はその一環。教科書通りの勉強をしたからその分野の研究者・技術者に認定される)、など積極的に参加していったのだった。
 そのような「体制化」の面からみると、この国の科学は遅れてはいない。むしろ西欧各国が数十年かけた体制化の結果をいっきに取り入れたので、明治中期以降の科学の体制化は世界水準であった。問題は、資金の不足と研究者の層が少ないことと質が低いこと、おもに実用化・応用化に注目していたことだった。
 20世紀前半、とくに1930年以降には世界不況と軍部ファシズムの台頭によって、体制化がさらに総動員化に変わっていく。科学の動員体制はドイツでもアメリカでもみられたことだが、この国の特色をみると(1)科学者は動員に積極的ではなかった(マンハッタン計画との対比)、(2)官僚の複数部署が独自に体制化を図ったために、同じような組織が乱立した、(3)それぞれの組織のセクショナリズムで生産性は劣っていた、(4)この時に作られた組織モデルが戦後にも残った、など。自分は科学・研究の現場から離れているので、これらは現在の科学およびその体制にどのような利点と弊害を及ぼしたからはわからない。たぶん複数官庁が科学研究にかかわっていること、研究費の配分に官庁の決定権が強いこと、などはまだ克服されてはいないだろう。
 おもしろかったのは、1930年代のファシズム定着に当たる過程をえがいたところだった。すなわち反知主義・反理性主義・神秘主義の運動を起こし支援する。それに反対する個人を排除する。反対する機運がなくなったところで、反知主義・神秘主義の運動を排除する。この過程はナチスドイツの手口に似ているということ。ナチスのSS弾圧に対応するのが2.26事件首謀者の処刑という指摘は刺激的。あとは、科学の動員を推進したのは、たぶん当時の若い官僚たちで国家社会主義を実現する練習になったのだろう。戦後、彼らが中枢になったとき(あるいは戦時の責任者が排除されたとき)、このときの経験がモデルになったのだろう。戦後の経済モデルを支援する科学の体制は有効に働いた。

2013/01/30 廣重徹「科学の社会史 下」(岩波現代文庫) に続く。