odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

杉田玄白「蘭学事始」(岩波文庫)

 蘭学創始期の記録であるこの書があることは知られていたが、原本の行方は要としてわからなかった。明治維新の直前、安政地震で焼失したものと思われていたのだ。しかし、明治初年の前の年、神田の古本屋で発見された。それに喜んだ福沢諭吉明治2年に復刻出版し、それ以来人の知るところとなった(という事情が解説に書かれていた)。
 内容はよく知られているように、「ターヘル・アナトミナ」なるオランダ語で書かれた解剖図を入手し、罪人の腑分けに立ち会った医師たちが図版の正確なことに驚き、翻訳を試みるころから現在(1811年ころ)までの蘭学研究の歴史を述べたもの。平賀源内も登場する。有名な「フルッヘンヘンド」の訳語を決定するのに時間がかかったという記述は原本ではわずか2ページで、残りは著者の周辺にいたのは誰で、どういう人柄で、どんなことをしたのかが人物別に書かれている。原文は非常に読みやすい(70年後に書かれた「三酔人経綸問答」などより、はるかに容易に読める)。原文にもあったが、蘭学が主に医書の翻訳をことにしていたので、実証主義・論理的な思考を要求するものであって、彼らもまたそのような思考の持ち主であるからだろう。それが文体や語彙に反映している。
蘭学の事始めは1770年ころに始まる。注目するのは、鎖国であって洋書の輸入や翻訳の禁止されていた時代であったにもかかわらず、この時代に始まったということ。オランダとの通商は小規模ながら継続していたし、数年おきに江戸に情勢報告があったというのが大きい。にもかかわらず、18世紀前半までは著者たちのような行動をとるものはいなかった。ということは、この時代から実証主義や論理主義的な考え方が風潮として生まれていたことになる。何が原因かしら。ときが、フランスの啓蒙主義と同じ時期。不思議な一致。
・このころ、西洋でもこの国でも、博物学本草学)やナチュラルヒストリ研究など博物学に対する興味が生まれた。観念をもてあそぶことより、自然の事物のほうが面白いと考える人たちが同時発生したということ。
・彼らの研究が一人の天才によって行われたのではなく、同志による共同研究であったこと。杉田や前野たちが「たまたま」知り合いで、新奇なことに興味を持ち、かつ医師の職業に関係するということでチームを作った。このようなチームによるプロジェクトが蘭学の始まりだった。当時は書物の値段が高く、個人所有することが困難なこともあって、また各自のもつ情報を共有する方法として、人が直接会うことが重要だったのだ。そして、このような共同研究グループのうわさはすぐに諸国に広まり、有志が上京し、彼らの研究グループに加わり、数年後に戻ってその成果を地元の友人、弟子、師匠らに伝える。それが繰り返されて、大きな成果が生まれる(「ターヘル・アナトミア」の翻訳完成から30年の間に、内科その他の医術書や辞書が多数翻訳、編集されていたという。そのスピードや範囲に驚こう。たぶん明治政府が東京大学を作り、外人教師を招聘し、優秀な若者を留学させるなどして、学問を制度化するようになって、民間の共同研究というやり方は消えたのだろう)。
・杉田が蘭学の知識に驚愕し、研究を開始することを決意したのは39歳のとき。それ以来、数十年間継続した。まあ、事を始めるには年齢は関係ない、重要なことは決意と継続であるという、自分には耳の痛い話が教訓になった。