荒俣版「教科書が書かない生物学史」みたいなものかな。生物学史を教科書的に書くとすると、まずアリストテレスの動物誌があり、長期間をあけてハーヴェイの血液循環理論になり、レーヴェンフックの顕微鏡の発明と細胞の発見、リンネの近代分類学、パスツールの微生物学とダーウィンの「種の起源」になり、メンデルの遺伝の法則を語る。19世紀以前の生物学をかたるとなるとこんな具合の実験と観察にフォーカスを当てた説明になってしまう。
著者はもうひとつの生物学、というか生物学という近代の専門学問からはみ出てしまったもうひとつの学問である博物学に注目する。そうすると、上記の人たちも触れることはあるが、まず教科書にも大学の専門課程の講義にもでてこない人名をたくさん紹介する。面白いのは博物学を「目玉」と「脳」でもって説明するという大胆な試み。
単行本(左)と文庫本(右)
目玉のほうで面白いトピックは
・不思議部屋というか見世物小屋というか、奇妙な文物(多くは動植物の収集品)を見せるもの。ときにはインチキな作り物(エイを加工した僧侶とかサルと魚を加工した人魚をか)もあった。その様子はまるで、昔の薬店(トカゲの黒焼きとかヘビの干物なんかを売っている)そっくり。16−17世紀のころ。
・大航海時代で世界一周航行が可能になると、たいてい博物学者が乗船して各地の動植物昆虫その他の収集品を本国に送っていた。ときには命を落としたり、そのまま収集先で亡くなる人もいた。18世紀。
・西洋人(ここではおもにイギリスとフランス)は海に注目していなかったので、浜辺の生物(イソギンチャクとかウミウシとか)の不思議な形態や色彩にびっくり。海辺の生物収集は貴族たちの趣味になり、そのうちに海水浴の風習にまで進化したとか。
・ガラスの水槽ができるようになり、人は始めて海の生物を横から見ることができた(それまでは壺にいれて上から見るもの)。これも大変な驚きになった。
脳のほうの面白いトピックは
・大量の収集品を集めるとそれを分類・体系化することが必要になってくる。そこで博物学者は上記の収集担当のフィールドワーク派と分類・体系化を担当する書斎派に分かれる。かれらの共同作業で、多くの彩色博物図鑑が作られた。2−3世紀をへても退色しない図鑑は高値で取引されているそうな(保存状態がよければという保留付き)。
・教科書では記載がないかほんのわずかな、キュビィエ、ラマルク、エラスマス・ダーウィン(チャールズの祖父)、それにゲーテなどが重要な博物学者として登場。進化論が出てくる背景には彼らが研究した「存在の大いなる連鎖」がある(無生物からヒトにいたるまで生物を並べていこうという試み)。
最終章はこの国の博物学のRise and Fall(隆盛と没落)が描かれる。トピックになるのは、1960年の柴谷篤弘「生物学の革命」だな。これでもって、ルイセンコ論争にいそしみ、「人民のための科学」を打ち立てる民科の運動が衰退したのだった。柴谷の主張は生物学は枚挙(博物学的な文物や現象の収集と分類)から人工生命に変われというもの。若手の研究者に影響を与えたが、おかげでこの国の博物学の伝統もいったん途切れることになった。
もともと博物学を行ったのは、金のある貴族・資産家で生活の必要を考えなくてもいいものか、人生を棒に振ってもよい(困窮をいとわない)という奇矯な人物か、アマチュアの手慰みだった。それは近代資本主義社会では生産活動に使えない知識なので、中等・高等教育から排除されていくのは必然であったのだろう。ま、仕方ないか。でも残されたエピソードをうまく編集するとこんなに面白い本になる。たぶん著者のもっとも脂がのった時期の仕事。情報の詰め込み量が尋常でない。
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