odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

イヴァシュキェヴィッチ「尼僧ヨアンナ」(岩波文庫) 尼僧に悪魔が取り憑く。敬神の果てに神は悪魔に転化するのか、悪魔がうちに住み着くのか。

 バブルの時代の1980年代後半、深夜のTVでこの小説を原作にする映画が放送された。その録画をみたときには、荒野とそこにある修道院が印象的だったが、ストーリーがまったく謎であった。この小説を読むと、謎はどこにもなくて、とても明晰。もう一度映画を見てみたいと思う。とくに中盤で神父の行動に決定的な役割を果たしたユダヤ教のラビがどう描かれているのか。ポーランドは東欧ユダヤ人が多く住むところ(だからワルシャワゲットーやアウシュビッツがあった)だから、キリスト教ユダヤ教の神父の行き来が可能であったのだろう。
 19世紀までの小説には魂を問題にし、そこに宗教をからめた作はたくさんあった。というよりもロシアの文学者のほとんどはこの問題に取り組んでいて(追記 ちょっと言い過ぎた)、とりわけドストエフスキーの作品は印象的だ。
 しかし、20世紀にはいると、魂の問題はあまり小説では取り上げられなくなる。サイエンスやテクノロジーの進展、資本主義の全世界化、国家による大量死など、現実の問題のほうが切実であるからだろう。そういう視点からすると、この小説は先祖帰りをした奇妙な作品であるといえる。
 題材の事件はフランスで起きたが、ポーランドの町ルーディンに置き換えられる。その町の尼僧院で集団の悪魔憑きが現れたためにスーリン神父が派遣される。途中の旅籠ではジプシーの女が不吉な予言をする。尼僧院では悪魔払いの儀式が公開されて、ポーランドの皇太子が見学に訪れるという次第。もちろんスーリン神父の努力は実を結ばず、「天使の」ヨアンナと名付けられる尼僧院長から悪魔は出ていこうとしない。彼は町はずれのラビを訪れ、したたかな神学論争を仕掛けられ、迫害を続けるキリスト教会を弾劾される。そして「わたしはあなた、あなたはわたし」という奇怪な箴言といっしょに、悪魔を自分のうちに引き込まなければ悪魔を理解できないといわれる。ヨアンナはただ一度だけスーリン神父に自己の心中を告白する。すなわち「悪魔がいることによって私は選ばれたものになる、悪魔が消えればわたしは名無しの尼僧に過ぎず、それはこの生の意味を失う」。そして深刻な神の懐疑に取り付かれた神父にヨアンナが触れたとき、悪魔はヨアンナを離れ神父に移る。なるほど、この小説において「悪魔」は外部にあって侵入を拒むものではない。むしろ内部において信仰がなにかに転化、堕落することが悪魔であるのだろうか。敬神の果てにおいて神は悪魔に転化するのか、それとも悪魔がうちに住み着くのか。上昇の果てにおいて現れる悪魔。シモーヌ・ヴェイユは重力によって魂が墜落するその果てにおいて神が現れるというのだが、この小説の悪魔の表れはその裏返しであるのか。
 あと、ここで主題の一部が性愛であることも重要かな。スーリンが自分の中に悪魔がいることを自覚しているものの、それは発現しない。決定的になるのは、ヨアンナが彼の体に触れたときだった。互いに禁欲を守らなければならないもの同士が接触したことが禁忌を破ったというか、限界を超えたというか、そういう何かが起きた。そこで、中世の修道士と尼僧の恋愛であるアベラールとエロイーズの往復書簡を思い出すことにしよう(自分は未読なのだけど)。
 不思議なことに、神父の魂と悪魔の抗争というテーマは「純文学」の世界からは取り上げられないのだが、モダンホラーの世界では良くあるテーマだ。ウィリアム・ブラッティの「エクソシスト」は「尼僧ヨアンナ」の現代版といえる小説で、少女に取り付いた悪魔祓いのために落ちこぼれの神父が出て行き、悪魔を自分のうちに取り込む。キングの「呪われた町」には吸血鬼と対決したために教会から締め出された神父がでてくるのだし、マキャモンの「スワン・ソング」でも邪悪な存在と対立する少女の心の葛藤がテーマのひとつになっている。ゴールディングの「蠅の王」では孤島に取り残され野生化を拒否する少年が蠅の王ベルゼブルと対決する。われわれの心的な問題として悪を実行しないという倫理をどのように定立するかは重要な問題である。現実世界で「悪」を定義することが困難なわれわれの時代。エンターテイメントの世界であればこそ、100%純粋な「悪」を描くことができるのかもしれない。上記の諸作でも、またイヴシュキェヴィッチの作品の中でも「悪」を完全に排除することはできないものとしている(上記のモダンホラー顔負けのおぞましい殺戮シーンすらある)。それはわれわれの経験からの実感としても、正しい。であるとすると、この小説はひどく遅れたものであるようだが、実は現代の問題の最先端にあるのかもしれない。


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