odd_hatchの読書ノート

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斎藤喜博「君の可能性」(ちくま文庫)

 なんとも懐かしい本が再刊された(といっても発行は1996年と昔のことだが)。もとは「ちくま少年図書館」という叢書の第3巻として1970年に発行された。その3年後、12歳で中学1年生だった自分は、夏休みにこの本を読んで読書感想文を書いた。それが市のコンクールで入賞した。授賞式は市の図書館で行われ、当日行われていた中学校の文化祭を抜け出して、同じ中学校で入賞した3人と会場にいったのだった。
 それから実に30年を経ての再読。かつては教えられる立場として読んだが、今回は教える立場から読んだことになるのかもしれない。すっかり内容を忘れていたが、中学のときに非常に影響されたことを思い出し、ここに書かれていることにはほとんど異論がなく、今でも自分の行き方あるいは判断の規範になっているのだと思い直すことができた。
 びっくりしたのは、中学生・高校生向けにかかれているにもかかわらず、文章と内容の非常に高度なこと。さらには、著者が引用している1950−1960年代の小学生や中学生の文章の実にりっぱなこと、そしてその精神の気高いこと! このときからすると、いまのわれわれの精神は軟弱にすぎるし、弱い考えしか持っていない。そして著者の非難する自分の利益や都合のことしか考えず、他人と意見を交わしながら自分を高めていこうとしない人間が多い。復古主義的な考えはまったく気に入らないのだが、この本に書かれていることを現実化しようとするのであれば、古い教育のあり方を検討することは有益になり、自分は賛意を表明できるだろう。
 不足していることがあるとすれば、「仕事」に関する記述が少ないこと。著者の経歴と年齢からすれば、職人や介護の人たちのことを取り上げるのは間違ってはいないのであるが、サラリーマンや公務員の「仕事」とそこでの自分の可能性を広げるやり方を取り上げて欲しいと思った。なにしろ、ほとんど生徒や学生は会社や組織に就職するのであるから。

 と8年前(2004年)に書いたあとに再読するといくつかひっかることがあって。
・この本のターゲットは、本当に中学生や高校生? 教師に対する苦言や親へのたしなめもあり、ときには自分語りになり、それらは中学生や高校生など教育を受ける者への話にふさわしいものなのかしら。
・主張をまとめると、人の可能性は無限で、世の中にはむだなものはない。だから勉強しなさい、みんなといっしょにやりなさい、協力しなさい、意見をぶつけあいなさい。世の中の様々な人をよく見聞きし、話をし、世の中のあり方を知りなさい。ということ。まあ、後半はそうかもしれないけど、前半については、なにをやっても平均点付近をうろうろという平凡な人間とか、コミュニケーションやリーダーシップの苦手な人間はいるわけで、そういう人には身が狭いなあ、荷が重いなあ。自分みたいに自閉的であったり、あるいはなにか障害があったりする人にはこの種の言明は苦痛にならないかなあ。自分はなんでもかんでもリーダーシップを期待されて(あるいは押し付けられて)、嫌でしかたがなかった。
・ポイントは、可能性を発見し失敗と恥をかく場所が学校だけである必要はないなあ、著者の要望することを教師が全部実現しようとするとそれはオーバーワークになるし、教師が手を抜いているのを子供はすぐに見破りみくだすようになるよ。となると、親と教師だけが中学生や高校生の「君の可能性」を見抜く必要はないし、失敗や恥かきを恐れないで済むような場所を学校に限定しなくてもよいよね。キリスト教社会のよいところは、ときに教会やNPOがそういう役割を持っていて、子供や生徒はアフタースクールに学校の部活なんかしなくて、教会やNPO主催の地域活動に参加。そこにはたくさんの大人もいる。学校の違う同世代もいる。幼児や低学年の児童もいる。そういうのは、子供が多くの大人と年違いの子供にあうことになるし、教師は楽になるし、地域に仕事をつくったり引退した老人の楽しみになるよね(映画「ヤング@ハート」が参考になる)。なので、学校は勉強だけに特化できる。こんなあり方は、著者の視野には入らない。

・教師の側も、教えるのはとくいだけど、生活指導なんかで親や子供と立ち入った話をするのが苦手な人もいるだろうし。給食の集金を督促し、不登校児の面倒を見て、夜町にたむろする「不良」を指導し、ときには妊娠騒ぎをまとめなければならない(以上はTVドラマあたりでつくられたステレオタイプな問題だ)。そういう苦手なことまで教師が担わなければならない理由もない。得意なところを担当し、全体として分業し、教師個人の負担を軽くするのは必要。
・あとは家族のことで、たとえば朝日新聞連載漫画「ののちゃん」は、ダメ家族の典型(勉強が不得意なこども、家事をしない母、出世しない父)とみなせる。そういうことを書いたサイトもある。でも、別の見方をすると、あれほど会話して共同作業をしている家族はめったにない。家の中の失敗や恥かきで、彼らが落ち込むことはない。となると、のぼるくんやののちゃんが将来不満をもって、金属バットを親に向けるとか、自室に引きこもるとはおもえないのであって、それはそれで「よい」家族ではないかな。ロールモデルにはならないけど。でも、著者の考える家族はもっと勤勉で、上品で、努力するものなのだろうな。「ののちゃん」のように親と子が対等に話をする(たがいに冗談をいいあい、相手の長所や欠点を指摘しあい、はげましあう)のがいいんでないかい。
 そういう点で、受け入れがたいところがあり、すこしばかり今日的ではなくなった。1960年代までの背筋を伸ばす教師を思い出す資料になる。