odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

北川民次「絵を描く子供たち」(岩波新書) 子どもは好き勝手に才能を発揮する。でもほとんどは怠惰か高慢でつぶれたり、30歳前に理由なくタレントが消えてしまうという。

 著者は1894年生まれの画家。20歳でアメリカにわたりニューヨークの美術学校で勉強。小金をためたので、中南米を漫遊しようとおもっていたが、キューバで有金を盗られてしまう。メキシコで聖画売りなどをしながら生活する。ここまでの著者の放浪生活はまるで悪漢小説(ピカレスクロマン)を読むようで、とても面白い。しかし主題はそこにはない。おりしもメキシコでは数年の内戦が大体終結し、社会主義的な政権ができていた(なので、ヨーロッパを逃れた共産主義者をメキシコは受け入れた。ほかにも当時のメキシコを愛した人はたくさんいる。有名なのはトロツキーとエイゼンシュタインブニュエル)。で、彼は田舎町で貧困な子供たち相手に美術「学校」を開いた。その実践の記録。

・「学校」と書いたが、実態は私塾に近い。通常の小学校(たいてい午前中で終わる)の授業の後、やってきた子供たちに画材を与え、好き勝手に絵を描かせたのであった。いわゆる「教育」はここではやっていない。すなわち、絵のテクニック(遠近法のつけ方、構成の作り方、色合いの組み合わせ、立体に見せる方法、などなど)は一切教えない。教えてくれと言う生徒(というのも最初のうちだけで、著者は自分を「仲間たち」と呼べというのだ)には別の話題を振って、はぐらかし、教えない。
・で、放任された子供たちはちびっ子ギャングになるかと思うとさにあらず、みんな絵を描くことに熱中し、驚くべき絵を描くようになった。モノクロの写真が本書に載っている。その迫真力はみごと。けっしてリアリティではないし、グロテスクイメージもあるし、構図も大胆だし、整理されていないし。しかし、それはこちらの見るものの目を圧倒する。それは巡回展覧会にきた当事の人々にもそうであったらしく、いくつかの絵は売れ、画材の足しになったのである。
・今の言葉で言えば「コーチング」だ。抑圧(貧困とか両親とか地域社会とか)でひねくれてしまったり、大人や社会の押し付ける規範への順応から子供たちを開放して、「自由」に現実をみるようにして、奔放に書くことを推奨するだけ。もちろんこどもたちは、同じ画材を使っているとマンネリズムに陥るので、それが見えたら画材(著者は子供らにいきなり油絵を描かせる)を変えて技術的な困難を与える。子供たちは困難を自分で克服することで新しい表現と主題を見つける。こんな具合だ。もしかしたらこれは「教育」よりも難しい。「教育」だと指導要領と年間スケジュールでもって教育単元を消化し、せいぜい製図や工芸の技術を持つものをみつけ、就職指導に役立てばよいくらいのものだから。しかし、著者の方法では子供ひとりひとりの関心や現況、ときには生活、家庭状況までも知らなければならず、臨機応変に対応しなければならないのだから。
・となると、この「学校」は「教育」システムで行うことは困難だろう。文部省や地域の教育委員会、教職員組合、PTAのような組織から独立したところでのみ可能であるようなやり方だから。この国の現状でいうと(および著者のこの国での実践の報告をみると)、どうやら戦後の混乱期には可能であったが、その後、文部省が教育の内容を細かく規定し、たぶんかつてはあったと思われる地域のコミュニティの役割を学校が引き受けるようになると(教師が指導者になる部活とかクラブ活動のことだ)、もういけない。著者のような学校は成立する基盤をもてないだろう。すでに1950年代半ばには著者はこのような「学校」を放棄している。
・著者の考えの面白いのは、彼の目的が「個性」の発見ではないこと。下手なやつや関心のないやつはいつまでも著者のめを驚かす絵を描かない。また優れた絵を描く子供を画家にするつもりもない。画家になりたいやつは好きになればいいのだし、書かないやつはそれでよいとする。要は、「自由」の獲得である。その自由を抑圧するものが近代社会とか資本主義自由経済社会ではあまりに強大だし、ふるいコミュニティでは教会、宗教、家庭(親)が抑圧的に振る舞うのである。それらからの解放の一助になるのが重要なのだ。放置されたり抑圧されたりしている子供の多くが、絵を描くことによって、社会適応ができるようになったこと。窃盗や喧嘩の常習者であったりドラッグを吸っているものが家の仕事をしたり仕事をするようになり、陰気で無口な子供が陽気になってグループに参加したりする変化を著者はなんども経験した。
・とはいえ、この「学校」でタレントを発揮したものも、たいていは3つの理由でつぶれる。ひとつは怠惰で、もうひとつは高慢で、さらには理由なく25−30歳でタレントが消滅すること。最後の例が身に染むのは、世界的なクラシック演奏家コンクールに優勝した10代や20代前半の若者の多くが30歳を越えると突然活躍しなくなり、タレントを発揮しなくなる例を大量に見ているから。「芸術」活動というのはそういうものなのだ、とうことか。ここをどう克服するかも面白そうだが、この本の主題ではないので、考えない。 諏訪内晶子「ヴァイオリンと翔る」(NHKライブラリ)あたり。
 この学校は絶対に民主主義的ではないし、しかもエリート養成でもない。そこを間違えないように。あと、現在の初等教育でアートを教師が担当するのは酷だよな。
 ついでに、この本の面白さは1920−30年代のメキシコの田舎生活が生き生きと書かれていることかな。なるほど貧困だし、自然は豊かであるし、人々の人情はインサイダーになれれば厚いし、そうでないときにはすぐに詐欺やいかさまにあうし、豊かなアメリカ人の憐憫と浄財を感謝しながらも軽侮の目をむけているし(それにアメリカ人は気がつかないし)、勤勉な連中もマリファナに手を出して身を持ち崩すし、可憐な乙女も年をとればやり手婆になるし。まあこういうアンヴィバレンツなのがメキシコの魅力なのでしょう。

2013/04/01 斉藤喜博「君の可能性」(ちくま文庫)
2013/04/02 吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)