odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

佐伯啓思「ケインズの予言」(PHP新書)

2013/05/20 佐伯啓思「アダム・スミスの誤算」(PHP新書)


序章 凋落したケインズ  ・・・ ケインズの政策は一国の閉鎖的な経済環境を想定していた。外国との開放経済を調べてみると、1)一国の独自の経済政策、2)貿易のバランス、2)為替レートの安定、を同時に達成することはできないことがあきらかになる。そして1980年代から「新自由主義」が生まれ、自由経済社会主義的政策(各種セイフティネット、公共投融資、大きな政府など)が批判されるようになった。いわく市場の自由経済に任せれば、万事OK。
第1章 国民経済主義者ケインズ ・・・ 20世紀初頭のイギリスの経済危機は、イギリスの工業生産はなく、貿易赤字を持ちながら、世界貨幣としてのポンドを守らなければならないということ。すでに19世紀末には工業生産はアメリカやドイツが超えていた。イギリスの収入は国際流通のサービス料(ほとんどの船舶はイギリス船籍)と金融決済の使用料。これをイギリスの銀行家や証券会社は海外投資をした。そのほうが手軽に利益がでるから。しかしそれは国内の失業と生産設備の遊休と為替レートの不安定をもたらす。なので、ケインズは国内投資をするべき、そのときに自由経済(レッセ・フェール)は認められない、大きな政府国内需要の喚起をすべし、インフラストラクチャーの整備に出資しべし、と国内経済の拡大を説く。
小野善康「景気と国際金融」(岩波新書)によると、投資先は海外であっても国内であっても変わりはないという議論をしているが、こちらでのケインズは海外投資は国内の需要喚起と雇用創出に関係しないからやめるべきといっている。ケインズのほうが説得力があると思う。)
第2章 「確かなもの」への模索 ・・・ ケインズ経済学のまとめをさらにまとめるのだから、なんのこっちゃになるかもしれない。それでも行うと、生産資本への投資が経済の成長の鍵(有効需要で最も重要なのは企業の設備投資などと考える)。しかし、投資が利益を生むかどうかは判断できないので、投資が減少する。そこで様々な企業の投資をまとめリスク分散する金融商品に変えると、投資を忌避する気分は回避できるだろう。一方、多くの投資家にとってはどの企業、どの金融商品が利益率が高いかわからない。そこで「美人投票」が行われ、さらに短期的な売買で企業収益とは別の利益を得ようとする。この仕組みがうまくいくのは「慣行」なので、その信用が崩れた時に金融市場は縮小し、生産資本の価値も下がって、投資が行われなくなる。これがバブル崩壊で、不況。ケインズはそのときに「確かなもの」として貨幣賃金の固定制と国家による貨幣コントロールを見る。ここが変化に対応すれば、経済は安定するだろう。その時の主役は国家で、政府。ナショナル・エコノミーが最重要であるという認識に基づく。
第3章 グローバリズムの幻想 ・・・ グローバリゼーションの内実はこのまとめではちょっとおいておく。1980年(当社調べ)までは、国家はナショナル・エコノミーの対策を立てればよくて、国家間(インターナショナル)の経済は些少であった。なので、ケインズ政策は有効だった。しかし、変化は、1)国際的な金融や貨幣の流動性が高まり、一国の政策では制御できなくなってきた、2)情報のヴァーチャライゼーションが進み、国家の壁を越えた取引を簡単に行えるようになった、3)国際金融商品が生産資本の投資より利子率が高くなり、こちらに投資が集中した、など。なので1980年までは市場と国家は相互補完関係にあったが、グローバル化により国家は市場を制御できなくなり、市場の自由化要求の圧力にさらされている(なにしろ海外投資を引きあがられたら、一国内の経済政策の成果は吹っ飛ぶ)。市場と国家の関係は対抗的相互関係に変化している。ここで問題はグローバル化経済の登場人物には規律がない(規律は国家とかネーションとかそういう場所や民族と個人との関係のうちで生成するもの。浮遊する貨幣と金融資産の動向にだけ関心をもつ経済人にはそのような道徳はない)ので、ナショナルエコノミ―の不安定化と、グローバル経済の暴走を生み出す。このまとめでは端折ったけど、ヘッジファンドとか国産金融商品とか市場の心理が市場の動向を決め心理に影響する「自己回帰的市場(セルフ・リフレッシング・マーケット)」などは別書で勉強しておかないと。
第4章 隷従への新たな道 ・・・ グローバル経済では資本は浮遊するが労働は浮遊せず国家の枠を自由に行き来するのが困難。なので、国家の経済政策は他国の資本を流入するように実行され、その評価は市場で行われる。そして「市場の声」もまた第2章で述べたように浮遊する。一国の経済が独立性を保っていたときには国家は市場と経済の上にいて、それらを評価していたが、グローバル経済では国家が市場に評価される。そこにおいて、国家を運営する政治家や官僚エリートは公共性を発揮できない。ないし成立できない。ここがまず問題。また、グローバル経済によってアメリカの覇権が生まれた。国際的な金融商品、情報システムの構築などによって経済のヘゲモニーを持つようになり、その他の国の経済政策はアメリカの政策に追随せざるをえなくなっていった。ターニングポイントは1985年のプラザ合意あたり。面白かったのは、ヨーロッパとアメリカの「自由」の違い。ヨーロッパの自由はロックに見られるように封建権力、絶対権力の抑圧に抗するブルジョアジーイデオロギーで、階級闘争の結果獲得したのであった。そのために具体的な内実をもつ。一方アメリカは入植以来、人々は小地主のプチブルジョワジーであり、打倒する権力との闘争はなかった。そのために自由は抽象的。で、アメリカ的な「個人の自由」のイデオロギーは経済においては、国家の統制からの経済人の自由、企業間の規制に抗する競争の自由を要求する。その具体的な表れが「グローバル経済」。標的になるのは、国家の経済への介入で、保護貿易で、産業の規制。これらを撤廃し、資本が「自由」に国家間を浮遊し、ゲームに勝つのが目的になる。あと、アメリカの「個人の自由」は、他者から承認されることで確立するが、グローバル経済では市場の競争に勝つことが他者の承認を得ることで、ここには規律や公共の概念は入り込まない。
第5章 「没落」という名の建設 ・・・ 短期的なグローバル化の問題は上記のようにまとめられる。で、ケインズは別の予言をしている。すなわち、経済の発展により人々が豊かになるにつれて消費性向が減退していき、生産過剰になってしまうこと。すでに消費欲を満たしている人は退屈を持て余すようになり、ギャンブルや見世物やスキャンダルなどに生を浪費する。そのような事態が、この国および先進諸国に生じているのではないか。そこにグローバル化により資産や貨幣が不安定になると、人々の性向はそのままに生活が不安定化する。規律や公共が失われる。なので、次の問題は、消費性向の低下、低成長、高齢化などの次のステップにたいしてどのような経済に向かうのか、ということ。かつてのような生産-輸出-外貨の獲得という高度経済成長モデルは不可。となると、浮遊化不安定化するグローバル経済とは別に、ナショナル・エコノミーを拡張すべき、というのが著者の考え。重要なのは非経済的な社会活動を活発化すること。その一例として、人口30万人以下の中小都市への投資(環境整備、人口増加など)をあげる。


 自由の概念がヨーロッパとアメリカとで違うというアイデアが面白い。ロック「市民政府論」とフランクリンやエマーソンとの違い、ディケンズマーク・トウェインの違いを見るような視点で、いろいろ読み直そう。そのうえで、ではこの国の「自由」はいったいどうかという問題を考える。この国には封建社会や絶対権力はあったがそれに抗する「自由を獲得する闘争」はなかった(あるいは権力に敗北し続けた。自由民権運動に、戦後の大学闘争あたり)。しかしアメリカの占領政策で、「自由」は天から降ってきた。そのような「特殊(ヨーロッパともアメリカとも韓国とも違うという意味で)」な状況で、この国の「自由」をどうみるか、だな。
 あと、これが書かれた1998年からさらに10年以上がたって、最終章の問題はまさに露呈してきたなあ、という身もふたもない感想。なるほど政治家にも官僚エリートにも、公共性を発揮できなくなっているし、それに敵対する言動が目立っているわけで。そして、地方の中小都市への投資はどうやらこの国の民意は「やらない」に集まっているみたい。
 規制緩和構造改革という問題よりも、ナショナル・エコノミーが重要。というのは非常に納得のいく話。2000年前後にいろいろ規制緩和したけど、市場の調整機能はこの本にあるようにもはや適正なところに落ち着く機能はないみたいで、むしろ新規参入者の敷居を下げて、商品やサービスの品質低下を起こしている分野もあるみたい。などと個別事象に対する不満や怒りはいろいろあるけど、もう書かない。アメリカの要求がどうのこうのとか、○○産業の将来性はどうのこうのとかいうエコノミストや官僚、政治家の発言はわきに置いておき、第5章の「優雅な没落」を考えることにしたい。
(「優雅な没落とは、低成長経済への移行、高齢化と人口減少社会への移行、過剰なモノや情報からの解放、金融のバブル化からの解放、匿名の言説の無責任の解放、こうしたことを含んでいる(P210)」ことに注意。念のため)