odd_hatchの読書ノート

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レックス・スタウト「我が屍を乗り越えよ」(ハヤカワポケットミステリ)

 あのネロ・ウルフに隠し子がいた? 過去を語らない探偵ネロ・ウルフの前半生が垣間見える作品。

 あいかわらず大金を消費し、そのために探偵家業を続けるネロ・ウルフのところにユーゴスラヴィアから渡ってきた移民の娘が依頼に来る。小さなダンススタジオ兼フェンシング道場で、盗みの嫌疑(ダイヤモンドが紛失)をかけられてしまった。助けて、それに一緒に働く子はあなたの娘なの・・・。ウルフは娘を見たら逃げ出したので、アーチーが代わりに行くと、盗難事件はあっさり解決。被害者は自分の勘違いといい、娘のアリバイを申し立てる人もでたので。しかし、その直後にアリバイを申し立てた男性が刺殺。凶器はスタジオの経営者のもっていた由緒ある剣で、なんとアーチーの外套のポケットに入っていた。
 当時(1940年)ユーゴ(という国はなかったらしい、クロアチアモンテネグロセルビアという小国の寄り合い所帯だった)に対して、オーストリアを併合したナチスは覇権を伸ばそうとしている。それに賛成する貴族と反対する人びとがいて、それぞれが国内を出て暗躍している。それに関連した事件らしい。国際的な陰謀事件に巻き込まれるのを嫌がるのだが、娘を送っていったアーチーの目前で殺人事件が発生したとなると、重い腰を上げざるを得なくなる。
 上記のようなユーゴの国内問題があるので、ニューヨークには各国の情報部が出入りしている。すなわち、このダンススタジオ兼フェンシング道場には、イギリス、ドイツのスパイも侵入していた。それはもちろんユーゴの利権に関することではあるが、情報戦の背後には西ヨーロッパの戦争にまで連なることである。したがって、最初に殺された男性はイギリス国籍であることからイギリス領事が口を出し、次に殺されるドイツ人はすでに情報局員であることが知られている。さて、秘密の中心にいるのは、ふたりのユーゴから来た娘とダンススタジオ経営の女社長であるが、ウルフに呼び出されても、すぐに行方をくらまし、物語のほとんどは彼女らを探す仕事に他ならない。ウルフもアーチーも国家を背中に背負うことなどしないのであるが、彼女らないし情報部は国家がすなわち自分であるのであって、冗談もいえないほどに緊張している。
 上記の政治情勢はこの本を読むまで知らなかったので、その点は面白かった(この小説が書かれて50年後、チトー亡き後、社会主義国家が崩壊して民族国家が乱立すると同時に、内戦状態になり、1940年直前の情勢に戻ってしまうというのはいささか物悲しい。ネーションは幻想的な存在だというある思想家の指摘が事実として現れている)。それを除くと、もさもさしたつくりが気になって、あまり楽しめなかった。
 面白いと思ったのは、この小説で舞台になるのはほとんどがウルフのマンションであること。時々、上記のダンススタジオ。ウルフの家のしかもオフィスでほとんどストーリーが進行する。唯一の警察官クレイマー警部(この翻訳ではしゃべりが東北弁風で、誠実ではあるが無能で風采の上がらないオヤジのように思える。別の作の訳し方で現れるボガードみたいな依怙地で熱血で激高しやすいアメリカの探偵ないし警官にはまるでみえない)も自分のオフィスでは仕事をしないで、ウルフの家に入り浸る。なるほど、ネロ・ウルフ探偵物では、事件は現場で起こる(@踊る大捜査線)のではない、ウルフのオフィスで起こるのだ。
 この作では、チーム・ウルフが犯人に罠を仕掛けるというシーンはなかった。残念。
 ネロ・ウルフの隠し子疑惑はどうなったって? この本を読んで真実を確かめてくれ。
 訳者の解説によると、後に書かれた「黒い山black mountein」では、ウルフの前半生(やはり情報部か何かの仕事でユーゴに侵入したことがあり、いっときは秘密警察に拉致された経験もあるらしい)に深い関係をもつユーゴに潜入した記録であるそうだ。