odd_hatchの読書ノート

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開高健「最後の晩餐」(文春文庫)

 1977年に刊行されているので、初出はその2-3年前の「諸君!」の連載。著者はこの本以外にも、多くの食に関するエッセイを書いている。とりわけ世界中で釣りをするという旅行兼スポーツ実践記では、当地の食べ物のことがでていた。そういえば、作家専業になる前に寿屋のPR誌編集において、映画と食のコラムはたいていこの人が書いていたのであった。
 さて。食に関するエッセイは「鑑賞と解釈」にふけるものが相場であって、この本でもおおよそはその種のものがならぶ。ユニークなところは、この昭和5年生まれで大阪育ちの作家は戦争中とそれからしばらくの間、貧困にあえいだ経験をもっているというところ。父がいないとか、都市住民だったので野菜を育てることができないとか、10代のときには自活しようにも職がないとか、いろいろ理由があって、飢餓を経験していて、それを現在と重ね合わせることで「社会」も合わせて見えるようにしている。(網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)では、飢饉のとき備蓄のある田舎では餓死者は少なく、輸入に頼る都市のほうに餓死者が多かったのではないかという仮説をたてているが、15年戦争の事例は仮説に会っていると思う。)
 もうひとつは文学に現れたる「食」を渉猟していること。ここでもユニークな視線があって、安岡章太郎をネタに軍隊における食を論じるとか(軍隊小説では女と食と糞がつきもの、らしい)、文化大革命時代の林語堂や老舎のエピソードで持って恐怖政治化で発言が不自由な中でどのように意見を伝えるか、そのとき食でもって何事かを語らせるかと紹介したり、ソルジェニツィン収容所群島」をネタに極限状況下の食への欲望を語らせたり(「アンデスの聖餐」事件でも当事者は飢餓を紛らわすために食の話をしていたという)、などなど。このあたりの目の付け方がおもしろかった。
 最後は、喫人について2編。この2つがあることで、このエッセイの価値が上がったと思う。人々の禁忌に触れていながら、なくならない事実。ここに視点を据えることで、「食」というか人間という存在の凄惨さなんかに身を竦むことになる。重要なのは事実の提示と合わせて、自分はどうするかという問題を検討すること。著者は2つの質問を上げる。ひとつは、そうするしかない状況にあるとき、自分はどうするか(食うのか、餓死するか)。食うという選択をするとき、その行為をどのように合理化するか。そのとき「神」があらわれるのではないか。またこの問題を考えるとき抽象的に考えるのではなく、具体的に考えること(尻の肉をガラス片で切り取るとか、頭蓋骨をかち割って脳を露出するとか、骨を折って髄をすするとか)。そのうえで行為に及ぶことは可能か。もうひとつは、そういう体験をした人をどのように遇するか。「アンデスの聖餐」事件のときに、当事者は確かコロンビアでは国民的英雄として扱われたのだが(彼らと国家がカソリックであることに注意)、この国ではどうなるか。敬して遠ざけ、実質的な差別の対象になるのではないか(武田泰淳ひかりごけ」)。そんな薄さむい想像までに至る。
 通常、喫人してはならないというのが正義であるが、それもある種の状況では許されることになる。なるほど、「正義」は文脈や状況に依存していてさまざまに変化・適用されるものなのだなあ。もっと細かい問題になると、複数の正義がぶつかりあって、それぞれの正義に妥当性があり、そのぶつかり合いはネゴシエートで妥協点を見出すのがよいのだろうなあ。時間と場所を問わない普遍の「正義」はたぶんない。「神を信ぜよ」「人を殺すな」「近親相姦はダメ」あたりはわりと同意してもらえそうな正義のようだが、それでさえ通用しない時代と場所があったのだし。