odd_hatchの読書ノート

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四方田犬彦「われらが<他者>なる韓国」(平凡社ライブラリ)

 大江健三郎が「世界の40年」で、「韓国からの通信」の感想としてあれほど感情的でなくても、ということを述べていた。そこで、この本を読んでみる。著者は25歳のときに、建国大学の日本語講師としてソウルにいき、半年をそこで過ごした。途中、大統領の暗殺があり、全土が戒厳令になり、大学が閉鎖されてしまう経験をした。そのあたりの事情を、活動家・運動家としてではない、もしかしたらノンポリともいえる視線でながめて、記述する。たぶん、そのように書かれた本はほとんどなかったので、好評に迎えられたらしい。自分は平凡社ライブラリに収められた2000年に初読。

 その国に対するわれわれの態度は、無関心と無知。そこにステレオタイプが加わっているという。この指摘はまさに自分にあてはまる。大統領の暗殺や光州事件を新聞やTVで知っていても、冷やかにみていて、それが終われば即座に忘れた。その傾向は今でも続いている。たぶん自分は、この国のパトリシズムの持ち主よりも少ない知識しか持っていない。
 さて、それを経てのこの国の人々の視線は次のようなものになると、著者はいう。すなわち、理想化を押し付けた「英雄的」ないし「卑屈」な観念をもって、彼らをみること。彼らと比べるとわれわれは醜い/素晴らしいというこの国の自分の印象を作る。彼らと連帯しなければならない/排除しなければならない、という。いずれにしても、そのような人々は決して、彼らの国に行かないし、彼らと会おうとしない。まあ、そういう立場だ。
 さらには、表層やモードと戯れるやりかた。かつては食であり、買い物であり、映画であり、今ではエステや整形であり、スターやアイドル歌手であるというわけだ。そのうえで、数回の数日の旅行をしたうえで、「ああ、あの国のことならすっかり知っているよ」という訳知りもいる。
 では、どうすれば「真に理解することができるのか」という問いが生まれるわけだが、その問い自体が無効。たぶん、いくらたってもそれに答えはでないし、著者にしてから成功と挫折の繰り返しで、愛憎の入り組んださまざまな感情を持っているみたいだし。
 となると、興味を見出したら、そこの知識をとことん集めていくことになるのか。そんな具合で、著者は映画をみて、漫画を読み、学生たちと酒場で飲んだくれ(けっして割り勘はしないで、だれかが全額払うのだという)、女性とデートし、老人と話をする。そういう生活をすることが最初のてがかりになるというわけだ。まあ、行くのがよいのだろう。自分はせいぜい池袋や新大久保の街をほっつき歩き、飯屋で酒を飲むくらい。では、そういう自分(本を読み、酒を飲むくらい)とスターのブロマイドやDVDを買い込むミーハーとどちらがよく理解しているのか?
 文学に限定すると、金素雲が編んだ岩波文庫にでている童謡集や民謡集の翻訳の優れていること(他国の詩をこの国の翻訳した詩人というと、上田敏とか堀口大學とかいるが、金素雲の仕事が等閑視されているのはいけないと著者はいう)。この国の中国人や台湾人は通俗小説の作家になり、彼らは純文学の作家にしかなれないのはなぜか、そこには民族のアイデンティティと自分のアイデンティティの間の葛藤の質の違いがあるのではないか、というあたりの指摘がおもしろかった。