odd_hatchの読書ノート

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エリック・ラッセル「わたしは無」(創元推理文庫)

 1905年生まれ1978年没。同じころに生まれた作家にはフレドリック・ブラウンやヴァン・ヴォークトなどがいる。イギリス生まれだけど、アメリカで活躍していたので、アメリカのSF作家のくくりにしてよいかしら。バロウズやスミスと、アシモフハインライン・クラークの間を埋める作家のひとり。アメージング・ストーリーを主な発表先にしていたので、ストーリーテリングが抜群にうまく、一方科学技術の記載は多少甘いところがある。

どこかで声が1953 ・・・ 恒星間宇宙船が突然岩石と衝突する。あまりの不意打ちで救命艇に乗り込めたのは9人。内訳は飛行士が4人に、雑務をしていた2人に、旅客の3人、そして一匹の犬。彼らは名の知れぬ危険な惑星に不時着し、1万マイルは先にある救助ステーションに徒歩で向かわなければならない。飛行士たちは白人で、雑務係は黒人にアジア人、旅客はバルカン半島の田舎者とダイヤモンド商のユダヤ人。指揮をとる飛行士たちは、彼らマイノリティに嫌悪や侮蔑を隠せないが、この緊急事態の極限状態において、だれもが忍耐と勇気を持っていることに感銘をうけていく。すなわち田舎者の妻が過労で死んだあと、夫は後追いの自殺を選び、ユダヤ人は溺れかけた飛行士を救うために水に飛び込むのを躊躇しない(しかも怪物に足を食われる)し、アジア人は進んで洞窟の中に入り惑星の生物が食料になるか人体実験する。別の飛行士は安楽死を希望する。まあ、舞台を宇宙に広げた西部劇小説で、「駅馬車」のような群像劇。第二次大戦を経験した人々にとって、「戦友」は差別の対象にはならないということになるのかな。この極限状態の先において、一人の飛行士とアジア人だけが残される。ここの奇妙な友情はたとえば映画「太平洋の地獄」に似てくる。もっとも、最後は一人だけが生き残り、狂気のユートピアが美しく描かれ、しかも「悩めるもの、重荷を負うもの、すべてわれのもとに来たれ」という声が世界に充満する。それは苦悩の果てに聞こえる「真実」の声、ということになるのか。高校生のときには、この友情と真実の物語に心底感動したものだが、老年手前になっては苦々しい。第二次大戦の災厄ののちに、朝鮮で、ベトナムで、アフガニスタンで、アメリカの若者はこの物語と同じ経験をすることになったから。軽々しく称賛する気になれないのだ。生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)とか岡村昭彦「南ヴェトナム戦争従軍記」(岩波新書)とか一ノ瀬泰造地雷を踏んだらサヨウナラ」(講談社文庫)とか。

Uターン1950 ・・・ 完全に管理され若返り手術で300年も生きることができる時代。もはやすることがないと考えたメイソンは生命終末庁に自殺を申し出る。意見を変更する意思のないことを確認した役人はメイソンに生命終末ホテルに向かわせる。そこでは、いつとは通告されずに本人に苦痛のない方法で「終末」を与える。もちろんこのあとストーリーはねじれていくのだが。めずらしく科学技術の発展と管理社会(および病死のなくなった時代)に批判的な小説。科学も進みすぎると、人間の「自然」にもとるという考えはこのときすでにあったのだね。

忘却の椅子1941 ・・・ 霊魂入れ替え器を発明した博士のところに、脱獄した殺人犯が押し入った。話を聞いていた殺人犯は博士を脅迫して、最初の人体実験を行う。それに成功し、彼はいくたの犯罪を重ねる。博士は恐ろしい復讐の計画を立てた・・・。心身二元論の世界ですな。ここから「新世紀エヴァンゲリオン」までの距離はそう遠くない。

場違いな存在1948 ・・・ 夕やみ迫る公園で出会った紳士。彼は日没の音楽を聴いているといい、かつて反乱を試み失敗して追放された「場違いの存在」であるという。彼の驚愕の正体。これも「新世紀エヴァンゲリオン」的な物語。

ディア・デビル1950 ・・・ 火星人が宇宙船に乗って地球を探査しに来た。衰えた火星では人口の減少がはなはだしかったためである。しかし、地球は核戦争によって廃墟と化していた。宇宙船の乗組員のひとり、詩人のファンダーは「美しきもの」とであったためにそこに残ることを決心した。そして一人のおびえた少年とであう。そこから始まる地球の再生と、自尊心の回復と、火星人との友好の物語。逆転したロビンソン・クルーソーの世界。高校生のときには、心底感動したものだが、老年手前になっては苦々しい。「美」と「真実」があれば、人々の交流は可能で、火星人の技術をコピーすることによって廃墟に住む人々も文明化される。貧困に苦悩する現地人は無償の援助をする異星人に感謝する。これはやはり、アメリカ<帝国>の正当化だよなあ。この方法はたしかにこの国では成功したが、ベトナムにイランにアフガニスタンでは手痛い失敗にあっているのに。心底、この「美しい」物語が苦々しい。

わたしは無1952 ・・・ 惑星間戦争を仕掛ける司令官。厳格で他人に容赦せず、すべてを自分の思い通りのままにしてきた男。彼は冷酷に惑星に最後通牒を送り、開戦する。もちろん装備の優れた侵入軍はほぼ全土を制圧するが、頑強な抵抗にあい、戦線は膠着する。彼の息子は前線にいるが、虐殺した廃墟の街で生き延びた女の子を家に迎える。他人を拒絶する子供の空虚な眼。彼女の書いた物語は全文引用しないわけにはいかない。

「わたしは無だ、誰でもない。わたしの家はあっという間に爆発した。わたしの猫が壁にはりついた。わたしはそれをはがそうとした。でもそうさせてくれなかった。そして猫を投げ捨ててしまった(P257)」。

 このような拒絶と絶望に向き合って、司令官の心は変わっていく。書かれた年代に注意。ベトナムアフガニスタンもイランの戦争も始まっていなかったとき。もちろん第二次大戦で、同じ拒絶と絶望の目をした子供は無数にいたはず。心に残る「傑作」。


 ラッセルはたぶんリベラルな立ち位置にいたと思う。そうでなければ、「わたしは無」のような息苦しい作品(しかも自国の政策批判を含んでいる)を書けるとは思えない。その点では、ごく普通のアメリカやイギリスの庶民感情や民主主義を支持する一人であったのだろう。それが戦後の「戦争はこりごり」「独裁者は有害」みたいな精神に同調してこれらの作品が書かれたのだと思う。
 でも、その当時のリベラリズムが、半世紀を超えるとこんなに息苦しくなるなんて。そこのところがどうにもやりきれないなあ。

2013/08/26 エリック・ラッセル「パニック・ボタン」(創元推理文庫)