2013/09/11 笠井潔「哲学者の密室」(光文社)-1
以下は誤読を含む自分のまとめ。
19世紀は1918年の第1次大戦の終了とともに終わる(あと同年のロシア革命も契機)。1789年のフランス革命から始まった19世紀を特徴つけるのは「市民の時代」であること。ここでいう市民は法的なものではなく、理念的なものだ。すなわち、市民は自分の決断について責任を有しており、主体となって社会や共同体に参画し、その政治的な役割を果たす。同時に、知的であり民族の精神を具現していて、共同体の倫理を実行するものである。重要なキーワードは主体。しかし、19世紀の半ばからこのような主体と市民は存在しないのではないかと脅かされていて、決定的な崩壊になったのが、上記のできごと。すなわち、この大戦で具現化した大量絶滅戦争、総力戦、前衛と後衛が不在になる戦争。そこにおいて死はごくありふれたもので、死を到来するのは一発の銃弾であったり毒ガスであったり。主体的に向かい合える死は戦争においてありえない。しかも、近代兵器は死を大量に作り出すことができる。まるで工場の生産品のように。そのような死がおきたときに、主体的に死を経験し自ら決断することはできない。
この時代の後の時代は市民が大衆になったと位置づけられる。すなわち大衆は自ら決断しないし、状況や政治に対して無関心、無責任である。社会や共同体から距離をとり、大衆の中の無個性、無名なものとして生を消費するしかない。しかも、その後の平和と繁栄は、死を隠蔽することになり、ますます大衆は市民社会から離れ大量消費の刹那の暮らしをするしかない。(追加すると、戦争による生産財の破壊や経済の停滞は、それまで「市民」でありえた官僚、資産家、弁護士や医師のようなエリート、貴族をいっせいに没落させ、貧困において平等にした。「主体」はある程度の恒産をもつ階級においてだけ成り立つ虚構なのかもしれない。貧困において平等になったとき、主体や市民を支えたクラスが大衆に転落したのだ。)
これほどの堕落がこれまでにおきたであろうか。というのが、ハルバッハの考えのベースにあるという。そして同時期に生まれたナチスにも共通する。ハルバッハは日常的生活に人が堕落する様式というか状態を記述する。そこはこの本では詳しくないので、触れずにおく。重要なのは、このような堕落を克服し、本来的自己を回復する方法として彼が考案したことだ。19世紀的な判断し決断する主体はもはや回復不能であるとしても、本来的自己を取り戻すことは可能ではないか。ハルバッハはそこで死の不可能的可能性を見出す。死は回避することが不可能であり、その人の死はその人自身が引き受けなければならないという固有性をもつ。そのような不可能であることが唯一可能性である死と対峙することにより、人は本来的自己を発見するのである。
というわけで、死は恐れるものではなく、むしろそこに積極的に関与し死をまっすぐ見つめることが自己の改革を実現する道である。その具体的方法をハルバッハは指示していないが、死を日常的に生きるというとき、それは戦場か暴動の現場でしかありえない。いずれも日常性の対極をなすもので、消費社会・マスメディアが隠蔽している死をあからさまにする場所である。ならば、自己を兵士か革命家として鍛え、戦場か暴動の場におくことこそハルバッハの思想を実行することではないか。同じモチーフはレーニンのボルシェヴィズムにもある。しかしそこにはハルバッハの「民族」「共同体」のいる場所はない。しかも、再建途上のドイツ国家を簒奪する国際陰謀組織なのではないか。
1930年代のドイツの精神状況はこんなものであるということかな。
1960年代にはナチズムの否定のために、死と対峙することによる自己革命が可能であると思われたのは、共産主義革命だけであった。
(続く)