2013/09/12 笠井潔「哲学者の密室」(光文社)-2
ハルバッハは、死の不可能的可能性が生の可能性を照射し、生を有意義なものに変えて本来的自己を回復するものであるという。とはいえ、自分らのような凡庸な頭脳の持ち主はこの図式を倒錯させてしまう。というのは、死は常に不可解で不可能であり、見る人に不安を生じるのだが、自分の身を死が日常化する戦場や蜂起の場においているときには、死の不可能性や不可解さを忘却して、死を日常的なものに突き戻してしまう。
そのときに、倒錯の方向は二つあって、己を死の場所に置くことによって自己の精神というか主体みたいなものを肥大化してしまい、特権的であると思ってしまうこと。そして緊張と不安にあり、自己改革を徹底していると思い込むことから他者を目的ではなく手段としてみていくこと。すごく卑近な話にしてしまえば、兵士であり革命家である自分はそのことが理由でもって、他者とは特権的な場所にして、死の不安を直視しない日常人の生死を決める権利をもっているとみなすこと。ここも卑近な話に落とすと、兵士であり革命家である「私」はそのような場所にいることに自覚した部隊や党派に所属するから、なにをしてもOKであるという万能意識を持ってしまうということかな。
一方で、自分の死を見つめ続けることで、見るという意識が肥大化していき、見ている身体は大して意味がないとみなしていく。これは、敵対する軍隊や権力や党派の尋問や拷問に対するつよい抵抗力の源泉だし、殉死・殉教の理由になるし、自殺を簡単に決意できる意識の理由になっていくのかな。自分の意識が肥大化して、身体を他者にしてしまい、身体を意識の手段にしてしまう。それが殉死・殉教・テロに至る倒錯になるというわけだ。「戦争の経済学」の自と他の(使用)価値の転倒だけでは自爆テロを実行する理由にはならないように思うのだよ。そこにいたるまでには、長い思想の格闘があると思うのだが。
さて、このような他者(自分の身体を含む)の手段化は、20世紀半ばの収容所に具現化する。ここでは個性や固体の意味は徹底的に剥奪され、自由や平等も価値がない。というのも、名を奪われ刺青された英数字の記号に存在は還元されるから。日常的堕落の消費社会も人を無個性化、無名化するのであるが、その対極にある死の哲学の組織(絶滅収容所とか前線の軍隊とかテロ組織とか)もまた人を無個性化、無名化する。ここら辺はフランケル「夜と霧」に詳しく記述されているので、繰り返さない。重要なのはそのような絶滅収容所は、効率化された製品組立工場のように効率性が優先され、死を生産するラインはきわめてシステマティックであったというということ。
著者の指摘するのは、収容所の囚人は主体を剥奪されているし、同時に死の特権性も持ち得ない。そこでは存在同様に死も無名化、無個性化されて、匿名の死に至る。しかも飢餓、不眠、プライバシーの剥奪という収容所では動ける囚人は生でもなく死でもないゾンビみたいなものになっている。それは囚人だけでなく、看守も同様である。収容所が解体されたとき、いずれの側も日常性に復帰することはできない。死を見つめすぎた結果、己を生きながら死んでいる、あるいは死んでいるのに生きているという状態にあることを発見する。たぶんそれは意味を剥奪されているから。意味を取り戻そうとしても、囚人や看守の目撃した多数の死体、まったく特権的な死を死ぬことができなかった死体が意味を空虚にしていくから。
似たような話は、ベトナム帰還兵にもあって、死が常態化している戦場から戻った兵士は社会に復帰するのが困難であったという。あるいは、この国の「特攻くずれ」も似たような思想の遍歴であったのかもしれない。
(続く)