odd_hatchの読書ノート

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笠井潔「国家民営化論」(知恵の森文庫)

 20世紀を大量死の世紀と定義したときに、大量死をもたらしたものとしてファシズム共産主義がある。前者は自由主義国家によって壊滅し、後者は自壊した。キーワードは個人の自由である。で、残された自由経済主義的資本主義国家であるがこれが問題の解決を果たしたわけではない。たんにライバルが自滅して、唯一残ったに過ぎない。そこには幾多の問題がある。重要なのは、個人が自分の自由でもって生きようとするとき、不正義と不合理があること、それによって生じる格差が解消されないこと、世界的な不正(飢餓や難民など)を放置していること、それらを解決する合理的な機能を持たないこと(でもって、ごく一部の金持ちだけに富が集中し、世界の行く末を決定できるようになっていることもか)。その解決として、著者はアナルコ・キャピタリズムを提案する。

 まず思想的には、近代の人間観はデカルトの理性人、またはアダム・スミスの合理的経済人を基にしているが、これは人間を十分に把握していないし、上記の近代の問題の原因ないし糊塗する働きになっている。となると、人間観は市場人(市場で物を売り、物を買うという商売の関係にある人)であると規定すべき。市場の交換の場において、人間が単独であることはありえず(近代的孤独やニヒリズムはない)、問題の解決は市場とそこに参集する人びとによって果たされる。
 次には、理性人や経済人によって規定される国家であるが、これは本質的に矛盾をもった組織。すなわち個人の一般意思を結集しているが、一般意思において人々を抑圧・弾圧・虐殺することに合理化する。国家の構成員に格差が生じることを承認し、時として拡大する。エンデは国家は本来持たないでもよい機能をもたされてアップアップしていると見たが、こちらの見方では国家は本質的に抑圧的で不合理なものであるとされる。
 このような認識の上で、近代国家を止揚し、人間が自由であるためにはどのようなあり方が考えられるか。共産主義はダメ、むしろ国家の権力を拡大し、人間を抑圧するのだから。どうようにファシズムのような国家社会主義・国家資本主義もダメ、国家が目的になるから。社会民主主義も同様。大きすぎる政府は、個人の自由を抑圧するように働くから。といって、現在のさまざまな民主主義も上記のように、個人の抑圧・格差解消・機会平等の確立などを実現しない。むしろグローバリゼーションの結果、多くの民主主義国家も財政難になり、自由抑圧の方向の政策を取るか、<帝国>の支援を受けないと成り立たないようになっている。要するに、「国家」という組織が問題、ダメなのだ。
 となると、残された道として、著者は国家を市場に解体することを提案する。これまで国家の担ってきたさまざまな機能を市場にまかせ、その自由競争によって効率化を図り、人びとの選択肢を増やし、機会平等を実現すべきであるというのだ。たしかロック「市民政府論」だと、最初の国家の機能は立法と司法であったと思うのだが(それを担当する組織の維持費として税収が要求される)、それも市場の会社組織に委譲するのだ。警察も、医療も、教育も、保険も、・・・。もちろんその構想において、国家に次ぐような巨大な私的共同体というか組織が個人の自由の抑圧の原因となりえ、同時に個人が所有すべき利益を独占しうる。それは企業であり公益法人とかなんとか事業団とかいうもの。これらの組織は、国家のように廃絶されるべきではないが、寿命を持たせるべきである(個人と同様に80−100年で解散し、当然財産相続権はない)。
 というわけで、世の人々を激怒させるアイデアを提案する。いわく
・財産の相続権は個人・法人共に認めない。遺産管理会社が運営(主に社会還元)するか、早いもの勝ちのぶんどり。
・法人、その他の組織には寿命を設定する。一定期間が過ぎたら解散。
・税金は不要。その代わり、公共財(教育、医療、治安維持など)は全額自費。それがいやなら民間保険に委託しろ。
・婚姻届など家族の証明は不要。
自衛隊や軍隊は解散。民間防衛で地域を守れ(当然、軍事訓練が人生のどこかで必須で、毎年訓練を行う)。
憲法は不要。民間の裁判所の判決などが規範の根拠になっていく。
などなど。通常はこのあたりの運用ルールにいちゃもんをつけるというのが読後の感想文。自分は興味はないけど。
 えーと、これは世界同時に進行しないといけないな、政権の交代は「革命」ではないけど(斬新的に進むだろうから)、ここの政策実現はこれまでのオルグ以上に説得努力と実施努力がいるな、いろいろ民営化したあとに残る公共財(橋とか道路とか、あるいは自然保護地区とか文化遺産とか)の設置とメンテナンスのリソースはどうやって調達するのかな、基本的な保険にも入れないような人々をどうやって支援するのかな、科学技術の開発研究や基礎研究は私企業にまかせてよいのかな、民意を集約する組織というか仕組み(村の寄合の拡大版)は残しておいてもいいんじゃない(それに政府や自治体のような権限を持たせるかは考慮するとして)、組織のパフォーマンスと成果をチェックや監査するのは必要ではあるがそれは民間私企業に任せることでOKなのか、市場の競争原理でもって悪の組織を淘汰したり抑制することができるのか、そのときに犠牲者が出る可能性は排除されるのか、むしろこの国の公害のように、あるいは人種差別のようにある特定の人々に不利益が押し付けられ、それを解決する手段が現在よりも少なくなるのではないか、科学技術の社会的影響の判断を市場に任せてよいのか(治療機関によって脳死の判定が異なるとか、原子力発電は私企業が個々の判断で建設してよいのかとか)、とかいろいろ問題が思いつく。ということは自分の脳が活性化されているということだ(なんて非科学的なものいい)。たぶんアソシエーショナリズムのとことん行った先はこれとそれほど差異のない状態だと思う。そこにいくまでの過程と実現方法を考えるのは楽しいことだと思うよ。
アーネスト・カレンバック「エコトピア・レポート」(創元推理文庫) - odd_hatchの読書ノート
 注意しないといけないのは、1.アイデアが自分の都合によいようなもので他人に害を押し付けるものではないか、2.利害を反対にする人からの批判に説得的であるか(ないしwin-winの関係を作れるか)、3.施策の是非を判定する社会的な実験にどのくらいのコストを払ってよいのか、4.フリーライダーや詐欺、善意の被害をいかに排除できるようにするか、などを考慮することだろうな。ときとして、この種の社会変革のアイデアが自分の差別意識の発露になっていて、他人に害を押し付けることを要求するものになりがちだから。
 それは自分の「常識」をチェックすることになる。
 例を挙げればこの国では1868年まで「国家」はなかったとか、19世紀のアメリカ開拓時代は国家警察はなくて保安官は共同体=自治体が年間契約で雇用するものだったとか、セイフティネットの一部をかつては宗教団体が担っていたとか、全国一律の教科書なんて上のような時代にはなかったとか、かなり長い間皇室は宗教団体のひとつだったとか、そんな「常識」に反する事例には事欠かない。われわれの「常識」や「伝統」もたどると、せいぜい100年前の新規なファッションや施策であったりする。そこらへんを考慮せずに、「常識」「伝統」でもって現状維持の政策を正当化するのはおかしなことになる。
 千年後か万年後かにはこういう国家なき自由社会が生まれていると思うが、それに参加できないのは残念。代わりに夢を見て、夢を語ることにしよう。1995年発表。
<参考エントリー>
佐和隆光「市場主義の終焉」(岩波新書) - odd_hatchの読書ノート
ポール・クルーグマン「世界大不況への警告」(早川書房) - odd_hatchの読書ノート
ジョン・グレイ「グローバリズムという妄想」(日本経済新聞社) - odd_hatchの読書ノート
宇沢弘文「社会的共通資本」(岩波新書) - odd_hatchの読書ノート
坂根利幸「民主経営の理論と実践」(同時代社) - odd_hatchの読書ノート