odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

笠井潔「梟の巨なる黄昏」(講談社文庫)

 世界を破滅させることをもくろむ書物。その書物の読者は、世界に対して憎悪をもち、破壊しようとする。そのような書物として作家が構想したものには「黄昏の館」があった。「黄昏の館」ではそれを書くことにより、世界と自分への憎悪と嫌悪が開示されるものであった。「梟の巨なる黄昏」では、そのような書物はすでに書かれている。実際に、それを読んだ数名の人々は発狂し、周囲を破壊し、自殺したのであった。それは厳重に秘匿され、老人の意思で焼却されるはずであった。

 第1章は、私小説作家である布施朋之の物語。一度文学新人賞を受賞したものの、その後誰も興味をひかなくなり、まったく小説が売れない。妻に寄食し、自分に嫌悪し、かつ世界を呪う。ついには、内職の校正で決定的な失敗を犯し、失職してしまう。泥酔した翌朝、ホテルに「梟の巨なる黄昏」という書物を発見する。そこに自分の望みがすでに書かれていることを知る。
 第2章は、布施の妻である和子の物語。父の暴力で家庭が壊されていて、自立しようとしてきたが、父に似ている布施を夫にもつ。結果、懸命の仕事と家事にもかかわらず、生活は上向かず夫の愛を獲得できない。唯一の希望は息子の卓也のみ。たまたま知り合ったフランス人のささやく愛に魅かれ、夫の部屋にある「梟の巨なる黄昏」を読む。そこから憎悪が生まれる。
 第3章は、流行作家の宇野明彦の物語。学生時代に布施と和子と知り合い、和子に求愛するが断られる。アメリカに放浪し、日雇い生活を送る。帰国前に書いた小説のごときものがベストセラーになった。しかし宇野自身は、自分の内奥に書くべきテーマがないことを知り空虚である。彼の原稿を欲しい新進の出版社社長(美女だ、もちろん)に誘惑され、「梟の巨なる黄昏」を自分名義で出すことの代わりに、和子の息子・卓也の血液型を知りたがる。それは卓也が自分の子ではないかという疑いを晴らすため。
 第4章は、謎の女・理恵の物語。父の家族に捨てられ、孤独な生活を送る。祖父が面倒をみていて、その遺言で「梟の巨なる黄昏」の焼却を命じられる。しかし、その書物の魅力に魅かれ、彼女の世界への憎悪を増幅する装置として「梟の巨なる黄昏」の出版を計画する。それが第1〜3章の陰謀であった。結果を見届けるために、布施と和子が卓也を連れて外出し、宇野が尾行するのを監視する。
 周辺事項から行こうかな。布施と宇野の和子をめぐる三角関係と互いの憎悪の交錯は、現代の横溝正史「鬼火」だな。あいにく、現代の物語には「金」が絡むのでその分より陰惨であり、許しがないので、読者には重苦しい思いが残る。こちらの登場人物にはだれにも感情移入できないのでね。それに、同じ物語が登場人物の別々の視点で繰り返し語られるのは福永武彦「忘却の河」。「梟の巨なる黄昏」なる小説というか物語は、神代豊比古なる昭和20年代初めに死んだ作家が書いたこととされる。それは、ドストエフスキーばりの観念小説(宇野の書きたかったのはこういうもの)だそうで、埴谷雄高と「死霊」をさしているのも明らかだろう。こういう謎解きはまるで意味がないけど。
 「梟の巨なる黄昏」なる人間と世界への憎悪を読者に押し付ける書物というのは、作家の想像力のうちにしかないのかと思いそうだが、実際のところそういう書物はある。でも、この「梟の巨なる黄昏」ほど発症率は高くなく、罹患した後に快癒する例もあるし、ときには魅了され尽くした結果新たな知を構築する天才を生んでもいるのであって、発禁にも絶版にもなっていない。まあ、「資本論」「存在と時間」のような思想書であるし、「聖書」「法華経」のような教義書であるし、「史記」のような歴史書であるし、「古事記」「ニーベルンゲンの指輪」のような神話であるし、「わが闘争」のようなトンデモであるわけだ。これらを読んだ数千万人、数十億人の読者のうち、わずかな者が狂気に取りつかれる。その観念を増幅し、妄執し、世界への憎悪のうちに、破壊と殺戮をおこなったのだった。そういう観念への取りつかれ方が上記四者四様に描かれている。具体的な人物への憎悪がなく、世界に透明な憎悪をもっている理恵の姿は、現実の独裁者とか悪の組織のリーダーによくあるものではないか。彼女は「バイバイ、エンジェル」の党指導者や「黄昏の館」のジュリエットの幼年時代であるといえる。彼女らの奇怪な理論や命令は理恵の妄執を経由したうえで、形成されたものだ。
 重要なのは、世界の憎悪や呪詛は書物から得られたものではないこと。もともと本人の中に世界を憎悪し呪詛する契機があった。布施にとっては達成承認の不足だし、和子にとっては他者の愛であり、宇野にとっては主体の欠如だし、理恵にとってはそれらのすべてだろう。こんな具合にもともと世界を憎悪しているわけであって、書物=観念はその憎悪を増幅し、正当化の根拠を与えるだけ。「物神化」というのはこういうときに使える言葉だったかな。本人たちは、小説にあるように書物=観念によって自分の意味を発見したことになっているのだが、そこには因果の転倒がある。本人たちはそれに気づけない。それは、上記の実在する様々な書物に影響されて、テロリズムを実行し、絶滅収容所を作った人々も同じ。彼らの観念的な倒錯は本人には理解できない。
 そういうことを思い出すと、この小説は空想や妄想の中にある架空の現実放れした物語であるとは思えなくなる。カリカチュアライズされてはいても、むしろリアリティある現実の恐怖の物語である。1996年発表。
 さて、物語の最後で「梟の巨なる黄昏」はある人物が所有することになるのだが、その後日談が「天啓の宴」になるのだろうと推測。


<参考エントリー>
笠井潔「黄昏の館」(徳間文庫) - odd_hatchの読書ノート
 この小説でも、作中小説のタイトルと、本のタイトルが同じであることに注意。