odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

深見弾編「ロシア・ソビエトSF傑作集 上」(創元推理文庫) 帝政ロシア時代のSF短編。

 1988年の東欧・ソビエト革命以来、ロシア文学の人気は落ちていく一方であって(と勝手に妄想。ドスト氏は例外的に読まれているのかな)、細々と翻訳が行われていたレムやストルガツキー兄弟のSFも新刊がでなくなってしまった(と見たのは2005年ころ)。この文庫本も、1979年に刊行されたきりで、ながらく絶版になっていたものを2003年に復刊したもの。それでも再刊なのだから、このエリアの小説に対する不人気ぶりが察せられる。個人的には学生時代に、生協などでよく見かけたものだから、懐かしいかぎり。そのときは手に取らなかったので、今回の再刊で入手。

ウラジミール・オドエフスキー「四三三八年」1840 ・・・ 奇妙な西暦は書かれた年の2500年後とみればよい。書いた時代に彗星衝突のうわさがあった。それと同じことが2500年後に起こることが予想されたので、催眠術で未来を見てきた(ポオに同じ主題の短編がある)。彗星衝突の危機を人々はあまり感じていないようで、関心は当時の体制にある。ツアーリがまだあって、貴族制の不効率が風刺されている。啓蒙主義的な民主制を強く主張しようにもデカブリストの弾圧があったしねえ。

ニコライ・モロゾフ「宇宙空間の旅」1882 ・・・ 人民の意思派の活動家が監獄収監中に書いた小説。当時の最新の知見によるハードSFで、宇宙船による月着陸を描写する。

アレクサンドル・クプリーン「液体太陽」1912 ・・・  ある科学者が自分の発明を実現するために隠遁して、実験を繰り返しているうちに、事故を起こし、隠遁地ごと破壊されるというもの。「モロー博士の島」以来の初期SFには普遍的なテーマを扱っている。書かれたのは1912年という帝政時代で、ラスプーチンとかスクリャービンというオカルトじみた連中がいたときだけに、当時のロシアにはインパクトのあるものだっただろう。
 前半は、そのころ多く書かれたユートピアものあるいは海洋冒険ものとそっくりの手順で話が進む。すなわち、風来坊の主人公(彼は若く知識が豊富で分別があり野心を持っているが、不遇で貧乏である)がとっぴな冒険を企画する人物と出会い、彼に感銘を受けて、冒険に出発する。この手順で始まる物語は非常にたくさんあって、メルヴィル「白鯨」、バトラー「エレフォン」、ヴェルヌ「二年間の休暇(というより十五少年漂流記)」、上述の「モロー博士の島」、ロフティング「ドリトル先生航海記」あたりをすぐに思いつく。たぶんポーの中篇もそういうものだったと記憶している。ここにはないどこか、それはユートピアかもしれないし、マッドサイエンティストの狂気の館かもしれないし、怪奇現象の頻発する古城であるかもしれないが、そのような「いま−ここ」ではない場所に出かけるためには、このようなリアルな手続を踏まなければならないのだ。現在、それをなぞっているのは多くのSFX映画であって、冒頭で宇宙船による宇宙探検・調査への出発シーンが描かれる。異世界にいくためには、その時代の最新鋭の機械、乗り物に搭乗しなければならない。
 太陽光を液体化し、無尽のエネルギーを確保しようという試み。ロシアの科学者メンデレーエフがこの説をまじめに解いたと解説にあった。ヘッケルにしろ、当時の科学者の奔放な想像力には驚かされる。現代で実用化された技術としては、太陽電池にでもなるのだろうが、太陽光を個体に閉じ込めるというのは、その時代では理解されないほど、さらにとっぴなアイデアであるだろう。液体というのは石油、そして当時の物理学者が考えていた宇宙空間に充満するエーテルのイメージに拠っているのだろう。それを支援するものとして、当時の物理学者を悩ませていた光は波か粒かという議論もあったに違いない。そして、作者およびメンデレーエフは光は粒であるの説に立脚していたはずだ。

アレクサンドル・ボグダーノフ「技師メンニ」1913 ・・・ 舞台は火星で、すでに共産主義革命が達成されているとしている。「赤い星」という名称ゆえの類推である。ここでは、水の乏しい火星において、運河を建設することにより、生産力をあげるとともに、テクノクラート労働組合による共産主義国家(というかコミュニティ)が成立するという話になっている。中心人物は技師メンニ。彼の事業計画は非常に巨大な一方、その運営にあたり権限を自分に集中した。それが保守派やブルジョアに利用され、いったんは頓挫し不正と横領の温床になる。労働者の苛烈な環境から告発が起こり、彼らは失脚。そのかわりにメンニが復帰して、プロジェクトリーダーになったが、そのとき若い労働者が彼の協力をすることになる。労働者は社会主義者でメンニを教育し、労働者の組織化に向かう。途中から運河の建設計画はどこかにいって、労働者による社会変革の可能性についての議論が主題になる。そのときノンポリで頑固なメンニに改心が訪れ、「吸血鬼」として彼をあざ笑うかつての同志にして裏切り者との対話があり(「カラマーゾフの兄弟」だね)、半覚半眠の白昼夢で未来の高貴な姿に魅了される(「ジャン・クリストフ」の最終場面だ)。ここらへんは小説のストーリーを犠牲になっていて、イデオロギープロパガンダ文書になっている。まあ、「赤い星」のおとぎ話は理解しやすい。
 解説によると、レーニンはこの小説を激しく非難したという(この中篇は1913年発表)。まあ、この小説では労働者階級はテクノクラートや思想家に指導されるもので、自立的な階級意識を持たないものであり、その判断は状況に流されやすいという描き方だからな。革命家は労働者階級から生まれ自分の意思で革命家となり、ヘゲモニーを獲得し、革命の最前線でブルジョアや封権権力と闘争しなければならないというレーニンの考えとは真っ向から対立するからね。
 21世紀の時点で読めば、むしろ生産力をあげる手段として、運河開拓による荒地の農地化ということに注意を要する。このプロジェクトは、そのまま1930年代以降に大々的におこなわれ、ロシアの各地で運河が開拓された。違うところは、小説では公債によって発足した事業協同組合が実施したのに対し、ソビエトでは国家主導のプロジェクトで労働力は囚人であったこと。それによる非常に多くの人がなくなったということ(具体的な人数はよくわからない)。
 さらには、このような開拓するべき土地のない、未開発の資源のない時代(21世紀)において、このようなプロジェクトは可能かということを考えてしまう。これは共産主義に限る話ではなく、ケインズニューディール政策も資本主義では行えない時代になっていることも意味している。結局、利益の拡大は土地(自然)からの収奪によってでないと達成できず、たかだか200年で地球という自然から収奪しつくしたあと、どのような方法によって経済成長を保障するのか、資源のなくなった状態でどのように人々に配分するか、そのとき人は他人に寛容になれるかという恐ろしい問題が提起されるはずなのである。そのときには、資本主義も共産主義も国家や人が生きる原理にはなりえず、ただ民主主義が成立できるのか、それとも再度覇権主義あるいは帝国主義が復活するのかという問題に直面するはずなのである。

ワレーリイ・ブリューソフ「生き返らせないでくれ」1918 ・・・ 魔法研究所ではミイラ化された死体の「神経組織」になんらかの刺激を与えることで、人格を復活することができた。新聞記者の前で、ヘーゲル、高名な娼婦マノン、イスカリオテのユダが復活して何かを語る。皮肉な落ち、ニヒリズム。ポーのゴシック小説の再来。


 18-19世紀は科学の世紀。力学、天文学から開始された科学の進展は、化学・博物学・医学におよび、それを応用・改良した技術と工業製品は生活と生産様式を一変させた。その変化は驚くべきものであり、その成果に人々は魅了された。今から振り返ると、当時の科学技術では自然の全面収奪というか破壊をするまでには至らず、収穫はどんどん増えていったのだった。そのような成果が科学の方法に対する素朴な信頼を生んでいく。ここに収録されているのはそのような科学の認識と技術が人間と調和している姿。
 まあ、一方でウェルズやステープルドンなどのように科学批判もあるわけで、クプリーン「液体太陽」のようなペシミズムも表現される。