odd_hatchの読書ノート

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なだいなだ「権威と権力」(岩波新書)

 サブタイトルが「いうことをきかせる原理・きく原理」となっていて、もしかしたらこちらのほうが主題をよくあらわしている。「権威と権力」というタイトルであっても、予想するような権威と権力の定義を明らかにすることはしていない。むしろ、われわれはいかに権威主義的に現れる「誘惑」に対して、理性的・論理的に対応するべきかという議論になっている。1974年当時ではそのような現われをするのが「共産主義者」「天皇制支持者」「独裁者」あたりだったのが、2000年代最初のディケードでは「ニセ科学」「カルト宗教」「国家主義者」あたりに変化してきたというのが現実の違いになるのだろう。そういう点では、この本は古びてしまったが、アクチュアリティはもっている。書き直してもいい。ニセ科学やカルト宗教、国家主義を批判する人には有益なことがたくさんある。
 最初に読んだのが1980年6月で、原理だとか中核派あたりの権威主義的な組織の連中と付き合いだしたころだった。彼らの一員にならなくてすみ、また後のオウムなんかにも批判的なところにいられたのに、すこしは影響があったのかしら。

 権力とはなにか。わかりやすい。暴力装置を持っている組織のことになるから。しかし権威はわかりにくい。なぜ人はなにかに権威を感じるのか。著者は、人の内面に生じるもので、現実とのかかわりの薄いところで判断をするようなときに権威が生じるという。たとえば、医療に知識のない人は医師に権威を感じ、小説を読みなれていない人は賞に権威を感じる。面白いのは、権威を批判するひとほど、別のところに権威を感じている。「科学の権威」を批判する人は、科学でないもの・科学とはとこなるものに権威を感じている。そのような心情を持つのは、彼は科学に無知であったり、科学を彼の現実に関係のうすいものを考えているから。そして、権威を主張するのは、権威を持ち出さないと自分の主張を相手に説得することや納得させることに自信を持っていないから。彼が感じている権威に依存しなければ、自分の考えの正しさを主張できないから。もうひとつ、彼らはある現実の解釈に悩んだり、問題に直面したときに、イエス・ノーのいずれかの答えを要求する。途中にある、どちらともいえない・この場合はこうだが別の場合にはこうだというクリティカルな議論をしたり、「答え」を受け入れるのが苦手だ。彼と現実とのかかわりが薄いほど、答えを簡単に早急に要求する。現実や専門家はそのような拙速な答えをすることをしないから、彼らは専門家を批判する。権威的だとして。
  権威主義的であると、「まとまり」を重要にいう。まとまりは、単一の主張を全員が共有し、一大事あれば全員がいっせいに行動することだ。それが必要であるというのは、権威は常に批判され、外から脅かされているからだという。そのような侵略とか抑圧に対抗するために防御が必要であり、防御のためには組織が「まとまって」いなければならない。このように主張するのは彼らの自信のなさであるのと同時に、彼らの主張から導かれる「理想」がすぐに実現するものであり、その理想においては現実の問題がすべて解決するからという。しかし理想が現実になることはないのであって、理想と現実に懸隔が生まれるのは外からの抑圧・批判・暴力・陰謀があるからだということになる。なるほどカルトやニセ科学陰謀論と結びつくのがよくわかる。
 理想は自分の人生において実現することはない。しかし、その実現にむけて努力することが必要である。そのような運動においては、理想は現実において批判され、挫折する。その失敗を検討したり、考えの足りなさを補おうとするとき、他者の協力が必要になる。権威的な主張のやりとりではなくて、問題解決のための具体的な議論が必要になる。そのような状態を「調和」というのが適当だろう。和なんぞというと「自然と」「おのずから」成るものだと考えがちだが(とくに日本においては)、そうではなくて多様な意見の存在を受け入れることと、クリティカルな議論が成立している状態のことだ。「まとまり」は権力が権威を持ち出して指導すれば成立するものであるが、「調和」を成立させることは難しく、厄介で、面倒で、できたときにはすぐに壊れてしまうか、権力に転化するかもしれないものだ。にもかかわらず、「調和」をルールにして、「理想」の実現に向かうことは重要である。以上が、自分なりのサマリー。