odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

サミュエル・バトラー「エレホン」(岩波文庫) 不合理でめちゃくちゃなユートピアはイギリスの現状をさかさまに書いた風刺文学。

 サミュエル・バトラーの詳しい情報がない。とりあえず文庫の解説をまとめると、1835年イギリスで牧師の息子として生まれる。1854年ケンブリッジの聖ジョーンズ・カレッジに入学し、神学を勉強。卒業後、貧民街の牧師になるも、懐疑を抱いて断念。ニュージーランドに移住して、牧羊を開始。大成功して終生生計に困らなくなる。イギリスにもどって、文筆活動を開始。「エレホン」1872年で名を挙げたが、ほかの著書は売れなかった。進化論の擁護者として著作を出している。1902年に没。

 さて、この「エレホン」は奇妙な小説。ニュージーランドと思しき大陸で、「土人(ママ)」の話を聞いた牧羊家が彼を雇って、現地の人ですら登らない山脈を踏破することにする。山脈をこえると、そこには外部と孤立した「国家」があって、とても不思議な経験をした。こういう冒険小説の枠組みを借りて、国家「エレホン」が描写される。
 一般に「エレホン」はユートピア/ディストピア文学とされる。そうなのかもしれないけど、どうにも奇妙なのは社会システムが不合理で、めちゃくちゃ。なにしろ病気、不幸、貧乏は罪悪で、矯正者の管理を受け、罰金を払い、ときには矯正収容所に送られることになる。子供の誕生は隠すべきことであり、生まれることは罪であるとされる。彼らの神話によると、子供はこの世界の向こう側で幸福な暮らしをしているが、あまりの好奇心の強さで面倒な手続きをしたうえで、だれの子供になるかを選択できないまま生まれてくるというわがままな存在なのだ。だから、誕生後数週間めの披露の席では、集まった人が赤ん坊を罵倒することになる次第。一方、死ぬことは大したことではなく、むしろこの世界の向こう側の幸福を獲得する手段とされる。進学する大学は、不合理大学という名称で、習うのは仮説学という詭弁の論理。ここで徹底的に合理的、実証的な思考をなくすことになっている。音楽銀行なる奇妙な銀行に預けると、利子は3万年に一度支払われるだけなのに、けっこう預金者がいる。
 まあ、ここらを深読みすれば、「エレホン」はかっこつきの「社会主義」であるのだろう。かっこがついているのはマルクス以降の社会主義ではないということを強調するため。個人の価値は最小限で、社会の保全・安定が優先され、それを損なうときに個人の自由や権利は制限されるというようなもの。社会の監視体制は貫徹されて、善意で密告や自首を勧めるようになっている。無理やりな理屈をつければ、ルソーの社会契約論の一部に近いかも(イギリス人がルソーを高評価するかなあ、と疑問がわくけど)。
 そういうユートピア文学とみるより、これはラブレーの「ガルガンチョワ」やスウィフトの「ガリバー旅行記」のような風刺文学としたほうがおさまりがよい。エレホンがnowhereの逆綴りであるように、登場人物はイギリスの一般的な姓名の逆綴り。作者がイギリスの対蹠点であるニュージーランド育ちであることを勘案すれば、エレホンはイギリスの現状をさかさまに書いているとみてとれる。実際、書かれた当時、借金の返済ができなければ監獄送りになり、残された家族が債務を返済しなければならない仕組みになっていた。劣悪な労働環境で病気になる労働者はたくさんいた。大学や銀行も現在の大学や教会の実情にあっている。そういう状況を誇張したのが、この小説になる。ここからあえて社会変革の志を見出すなら、俺らの社会はこんなに支離滅裂ででたらめなんだぜ、どうにかしろよ、という啖呵を切ることかな。
 最後のほうには機械反対の論が書かれる。主人公「私」がエレホンを見聞することになったのは、懐中時計を所持しているのを発見されたからだ。エレホンでは数百年前に機械をすべて壊すという運動があり、現在では機械を所有することは犯罪とされる。普通はここにラッダイト運動のような反産業革命の思想を読む。まあ、そうかもしれないけど、ここで引用される機械反対論の内容が進化論の反論ないし忌避論であることに注目。機械がまずいのは、自己複製と突然変異の機能を持っていて、長時間かけて自己意識を持つようになる、そのとき人間と機械の差異はなくなり性能に劣る人間の価値が下がるから、というもの。この説明はほとんどダーウィンの進化論とその解説だね。それを忌避する社会風潮があって、それを進化論擁護の立場から揶揄したのがこの数章なのだろう。(岩井克人「資本主義を語る」ちくま学芸文庫所収の「ニッポン人」によると、機械に魂が宿って人間になることを西洋人は恐怖に感じるということなので、そちらからの読みも可能。あと、機械が人間の労働を奪うかという問題は、ポール・クルーグマン「良い経済学悪い経済学」(日経ビジネス文庫)の第12章「技術の復讐」で触れられているクルーグマンによると、失業率の増加と技術の発展・普及には関係が認められないとのこと。)
 書かれて150年たつと、風刺の対象がどこにあるのかよくわからなくなり、当時の読者が笑うようには笑えない。それに、重厚で長くてまわりくどい文章は、古い小説に慣れた読者でないと読み通すのは難しい。当時のイギリスのベストセラーも、今読むにはちょっとね。ラブレーやスウィフトのような才能を持つ人はとても少ないというのが証明された。たぶんこの国では、ユートピア小説と誤解されたままなのだろうなあ、そのままでもちっとも問題はない。なにしろ入手できない。翻訳は1935年。


 2020年8月に新訳がでました。