odd_hatchの読書ノート

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村上春樹「辺境・近境」(新潮文庫) ツアー旅行でほとんどの秘境に行ける時代に、「旅行記」が成立するのか

 作家には、旅と相性の合う人とそうでない人がいる。最もディープな旅は無銭の貧乏旅行で、辺境深く迷い込み、機転のみが自分の武器であり、運命に翻弄されることを厭うことなく、別地に向かい、もしかしたら帰還することがかなわないかもしれないという境地に身を置くことになる。この手の旅を行えたのは、金子光晴小田実(と沢木耕太郎か。ノンフィクションとしては書いていないが笠井潔に似た経験があるかもしれない)。
 村上春樹は意外な旅上手。たしかに出版社からのオファーがあったとはいえ、メキシコをバスで移動したり、ノモンハン事件の現場を中国とモンゴルの両方からみたりというのは、なかなかできることではない。「外国」に出かけることの躊躇がないというか、壁をかんじないというか、気軽なのだよね。それは「戦後」に外国に出かけた人たちとは異なるところ。まあ、ここに書かれた旅とは別に、ギリシャやローマに長期間住むことをしていて、「外国」にいることがそれほど敷居の高いことではないのだね。

 「久しぶりにリュックを肩にかけた。「うん、これだよ、この感じなんだ」めざすはモンゴル草原、北米横断、砂埃舞うメキシコの町……。NY郊外の超豪華コッテージに圧倒され、無人の島・からす島では虫の大群の大襲撃! 旅の最後は震災に見舞われた故郷・神戸。ご存じ、写真のエイゾー君と、讃岐のディープなうどん紀行には、安西水丸画伯も飛び入り、ムラカミの旅は続きます。」
村上春樹 『辺境・近境』 | 新潮社

 とはいえツアー旅行でほとんどの秘境(北極、南極、アフリカの平原、ナスカの地上絵、ガラパゴスなんか)にいくことができ、TVによって世界各地の実況生中継ができるようになった時代に、「旅行記」が成立するのかという問いが生まれる。著者は困難、といい、確かにここにおさめられた旅の数々からは、上記貧乏旅行をしている人の書きものにあるような書き手の切実さと、路上から生まれる臭いというのは読み取りにくい。過去にはバックパック・ツアーを経験したようだが、40歳を過ぎると同行者がホテルと移動には金を惜しまないで、もう若くないから、というのに同意するようになる。その選択をすると、路上の臭いはかぎとれなくなるな。この違いは作家に特有のものではなくて、加齢による変化だけでもなくて、この国の人々に共通する感じになっているのではないか、と妄想。バックパックで安宿に泊まろうがときに野宿もかまわないというのが1960年くらいまでの当たり前の感覚で、ホテルと交通は安全のために金をおしまないというのが1980年以降の感覚になっているというような。まあ、冒険とか無謀とかが回避されるようになっているのかもね。
 あと、旅行と海外の滞在は違うのだということも重要か。旅行記は書かれなくなっているが、海外滞在記は需要があり、当初はアメリカ、イギリス、フランスくらいであったものが、北欧・アジア・ラテンアメリカなど各地に広がっている。