odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

大江健三郎「日本の「私」からの手紙」(岩波新書)

 1994−95年に書かれた短文、講演など。作家が注目する出来事は、フランスと中国の核実験、中国の人権侵害(1989年天安門事件当事者への弾圧)、旧ユーゴや旧ソ連の内戦など。1994年にノーベル文学賞を受賞したことが契機になって、さまざまな組織から講演依頼があったようす。日本語ネイティブではない人を聴衆にしていて、自身の仕事や思想を説明することになり、かつしゃべって理解してもらうためにいつもの難渋な文体にはなっていない。なのでわかりやすい。ただ、昔からの読者にとってはさまざまなエッセイ、小説で書かれたことを再読することになるので、新しい発見は少ない。

フランス核実験をめぐる手紙と感想 ・・・ 上記のうち、フランスの核実験に対する抗議文。

天皇が人間の声で話した日 ・・・ 1945年8月15日の受け止め方。オシコメとメイスケさんへのフォークロアな想像力。村で唯一の原爆症死者と韓国人。子供の天皇の声の真似。天皇に死ねと言われたらどうするかと恫喝する校長が8月16日の朝礼で「ハロオ」と進駐軍に話しかけようと諭す。森の中での孤独な一夜と母の手。痛切な問いは、占領期間中、この国の人々はだれも占領軍に反抗しなかったこと。詩的な思い出。ニューヨーク・タイムズ・マガジンに発表。

日本人はアジアで復権(リハビリテイト)しうるのか ・・・ これもニューヨーク・タイムズ・マガジンに発表。韓国や中国と和解できない、共感できない状況について。原因は1945年以降のこの国の戦争責任のとりかたのあいまいであること。1952年のサン・フランシスコ講和条約に中国とソ連(その他多数の国)が招聘されていないで、いまだに全面講和ができていないこと。政界、財界、官僚がその種の施策を取らなかったこと。などがこの国の問題。認識の仕方は佐和隆光/浅田彰「富める貧者の国」(ダイヤモンド社)と同じ。

希望と恐れとともに ・・・ 1995年のソウルの講演。東京中心の文化に対抗する周辺の文化としての沖縄、韓国、在日朝鮮人の文化や文学について。上記と同じで、講和の不十分さがこの国の発言をハギレ悪くし後ろめたいものにしてしまうのだなあ。

日本人は年とともに改良されたか ・・・ 同じ年のハーヴァード大学の講演。自分の文学的半生の振り返り。

ギュンター・グラスとの往復書簡 ・・・ ギュンター・グラスとの往復書簡。ともに敗戦の日を少年でむかえ、死ぬのに遅れてきた青年であり、年長の人たちの過ちに対する責任を感じることが共通点。そこから50年経って、両国にあるのは、経済では発展した(勝利したのはこれらの敗戦国ではないかとの皮肉もある)一方、道徳的・精神的には退廃ないし後退しているのではないか。過去の惨禍に対する責任をないものにしようとしているのではないか。

信仰する人たちもそうでない私らも ・・・ 浦上天主堂での講演。国家の大義に抗する個人の正義について。

平和への文化のために ・・・ 国連大学での講演。

時代から主題をあたえられた ・・・ ウェールズの詩人R・S・トーマスの紹介。セナクゥールのことば

「人間は所詮滅びるものかもしれい、残されるものは虚無だけかもしれない。しかし抵抗しながら滅びようではないか。そして、そうなるのは正しいことではない、ということにしよう(P209)」


 作家から学んだことは、自分の意見や主張の正しさを考えるときに、外国語(主張の対象になる国のことばであるとよりよい)に翻訳されたらどうみられるだろうかと考える習慣を持つこと。そうすると、この国では通用するような風俗や習慣や概念を使っていて外国語を使う人にはわかりにくくなるのではないか、自分の意見や主張が外国語を使う人の人権や財産を侵害してはいないか、彼らを傷つけることばや主張をしているのではないか、などを確認・修正できる。そうすると、自分の意見や主張を誤解されることなく伝えることができ、聞いたり読んだりする人に共感や同意を得られるようになる。これは文章を書くだけでなく、物事を考えたり、人の意見や主張を検討するときにも有効なこと。これを実行すると、議論や意見の交換を素早く行うことはできなくなるけれど、誤解を避けたり説明を繰り返したりすることがなくなるので結果として、意見の交通は滑らかになるだろう。そういう実例をこの本などにみることができる。キーワードはディーセンシーであって、上品であること、寛容であることなどのいい。リリアン・ヘルマンの著書でもでてくる重要なことば。ディーセンシーを実行することの困難さ。(今や貧相な意味しかもたない言葉になってしまった「品格」よりも多義的で重層的なことばなのだ)
 あとは、作家の発想は「私」から始まるところ。あとがきによると、スーザン・ソンタグにそのことを指摘(からかい?)されているのだが、私の個人的な体験をくりかえし反芻して普遍的な考えに高めようとする。それは小説の想像力には有効ではあっても、社会参加や政治の想像力になると問題があるのではないか、と考える。詳細は別に書いた(「生き方の定義」の感想)ので、ここでは省略。
 下記エントリーでも言及。
大江健三郎/武満徹「オペラをつくる」(岩波新書) - odd_hatchの読書ノート