odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

大江健三郎「あいまいな日本の私」(岩波新書) 1994年ノーベル文学賞の受賞講演その他。上品(ディーセンシー)なユマニズムをつぶそうとする日本のあいまいさ(アムビギュイティー)。

 1992年から94年までの講演のまとめ。その中には、よく知られているようにノーベル文学賞の受賞講演も含まれる(本の題名のもの)。古くからこの人の文章に触れている人には、さほど新規なことは含まれていないのだが、講演ということでいつもの晦渋な文体ではないので、とっつきやすいかな。それぞれの講演は実に様々なことを話しているが、自分に興味深かったところ、気になるところを摘出。なので、まとめではない。

あいまいな(アムビギユアス)な日本の私 ・・・ 芸術の持つ不思議な治癒力について。それを支える上品(ディーセンシー)なユマニズム。それに抗するこの国のあいまいさ(アムビギュイティー)について。それは過去は他国への軍事介入であったし、現在では環境破壊にみられる。それゆえに、芸術の治癒力は必要。あとこのタイトルを英訳したのは、「Ambiguously, Japan, Myself」としている。日本語の助詞とか形容詞を使っていないことに注意。これもこの国のことばの「アムビギユアス」さ?

癒される者 ・・・ 人間が病気から回復する過程は周囲の人を励まし力付けることができる。そのような回復の過程に参加することによって、死の可能性にあるニヒリズムとかシニシズムやペシミズムから抜け出し、再生と回復の力を持てるのではないか。

新しい光の音楽と深まりについて ・・・ 芸術家の仕事は世界を変えるのではない、世界に秩序を与えて、新しい世界の見方を提出する。それで混沌とした世界に秩序ができて、人々は生活を見る見方を変える。それによって癒されたり、回復したりすることができる。あと他者に寄り添うこと、声をかけることの重要性について。

「家族のきずな」の両義性 ・・・ アムビギュイティーにはあいまいさと両義性の二つの意味がある。で、核家族といえども昔の父権的な関係が残っている(支配者の慈悲はおまえたちはかわいそうだから殺してあげようというように現れる)。親の支配と子のカウンターバランスのあるのが、今の家族。どちらかの力が強い時、暴力が振るわれる。家族は安心して失敗できるところで、ゆっくりと注意力と謙譲を教えることのできる場所。親と子が同じベクトル(たとえば超越者や概念)に向かうのがよい。最後のところで作家の望むのは民主主義だ。

井伏さんの祈りとリアリズム ・・・ 内容は古いが方法には敏感であった。祈りについて考える人であった。面白かったのは、小説には、どうしてそれを書くのかというモチベーション(動機付け)が必要、それがないと小説のちからはなくなる。

日米の新しい文化関係のために ・・・ 1980年代からあとの若い知識人たちは外国の思想に「もはや学ぶものはない」といって閉鎖的な状況を作り出した。いっぽう、海外の日本研究者は独自の研究をして、この国に新しい知見や意見を述べている。それに答えないのは、この国の知識のあり方として、国語を別にする人の交通として正しくない。

北欧で日本文化を語る ・・・ 「源氏物語」、「それから」、自作を語る。

回路を閉じた日本人でなく ・・・ この国の文学は、この国の内部の人々か概念的な普遍的な人類に向けて書かれていて、具体的なアジア人やアメリカ人、ヨーロッパ人などに向けて書かれなかった。そのようなとじた回路で言葉を発していたのは、それこそ留学経験のある漱石にもある。でもそれではダメ。

世界文学は日本文学たりうるか? ・・・ というタイトルで話を始めながら、世界言語で書かれる文学を構想したり、クンデラのような亡命者文学を語ったり、核時代を克服する文学を構想したりと、どうもとりとめない。


 文学者の講演というのは、こんな風に話題があっちこっちにいくようなものなのかしら。文学の話題が世界の軍拡競争に行き、それはいつのまにか個人の家の事情にうつり、その交友関係から別の文学者の小説の一節にいくというような。なるほど、演台の作家がかたることばが生まれては消えていき、数分前の話題が遠い昔のように思える会場の聴衆には、このような興味をひける話題がつぎつぎ展開するのがよいのかもしれない。とはいえ、文章で読み直すとき、30ページばかりの文章の主題はなにか、重要な主張はなにか、ととらえようとすると、この講演集だととりとめがない。そのために、うえのような個人的に関心を引いたところだけをぽつんぽつんとメモするだけになる。そういう読み取りでよいのかな。科学や技術の文章では、構成と論理は堅固で、主張もはっきりしているし。そういう文章を読みなれているので、この本では「あいまいさ」は感じなかったが、「とりとめなさ」が残った。
 他の人の感想によると、感動したとか、癒されたとか、高い評価をつけているみたいだけど、自分にはあわない。むしろもともと文章で発表することを前提にしたエッセイや評論のほうが、作家の主張を読み取りやすい。とはいっても、晦渋な文章でとっつきにくいんだよな。痛し痒し。