1992年のNHK人間大学という番組で30分×12回の講義を行った。そのときの講義録。この時期、自分はこの番組が好きで、荒俣宏の博物学ほかの講義を聴き、録画しておいた。「文学再入門」もVHSで録画し、DVDに変換して現在も所有している。ただ、見直すことはない。全部見ると6時間かかるからねえ。
それでも一部はかつて見たのであって、早口で吃音気味でしかも口の中でもごもごとしゃべるのは、シャイなせいか、それともせっかちなせいか。いずれにしてもよく聞き取れない不思議なナラティブだった。慣れることはなくて、違和感ばかり。おかしいのは、かれが自作の小説を朗読すると、活字ではあれほど読みにくい文体が、彼の口を通じるとリズミカルになって、良い文章を聞いている感じになる。でも活字を見るとやはり読みにくい。なるほど文体は身体なのだなあ、と妙な関心をした。(ま、自分は書いた文章を朗読していないので、黙読しても音読しても、心地よくならないガチャ文であるだろう)
さて、内容はほぼ同時期に出版した「新しい文学のために」をほぼなぞっている。これは序で本人がいっていること。岩波新書を既読であれば、内容を再確認することもない。そこで、取り上げた著者と本をリストにしておこう。
文体について:ディケンズ「荒涼館」
病からの回復と魂の癒し:ドストエフスキー「罪と罰」、志賀直哉「暗夜行路」
カーニバル:ドストエフスキー「罪と罰」
グロテスク・イメージ:井伏鱒二「かきつばた」「黒い雨」
大いなる女たち:夏目漱石「行人」、バルザック「村の司祭」、フォークナー「野生の棕櫚」
幼児神:大江健三郎「芽むしり仔撃ち」「新しい人よ眼ざめよ」
長編:トルストイ「戦争と平和」
異化:中野重治「日暮れて」、佐多稲子「水」
想像力:大岡昌平「歩哨の眼について」
最後の作品:武田泰淳「目まいのする散歩」、梅崎春生「幻化」
この中で読んだことのあるのはいくらもねえや(@日本の夜と霧)。いくらのうちのたいていは高校生の時なので、内容を覚えていない。
「再入門」というのは、若い時に小説や詩に熱中しても内容を十分に理解し得ないまま読み終え、そのまま放置しているケースがある。それから人生を経て様々な経験をすると、かつてよりも小説や文学を自分の身に引き寄せて、より納得し、細部を楽しみながら読むことができるのではないか、という考えから。そのときに、本には赤線をひいたりメモを書いたりして、どのような心の変化や関心があったかを記載しておこう。のちにそれを読むことも、小説や文学を楽しむひとつになる、というアドバイス。作家は若いころから、本を読むときには赤や青や黒の線を引いたり、感想を書き込むことを薦めている。自分も一時期はやっていたけど、あんまりたくさん線を引きすぎて、再読の邪魔になり、いつのまにかやめてしまった。付箋を張ったり、ノートを取ったりする人もいるなあ。今はPDFにメモを書き込めるようになった。メディアの変化で読書の方法も変化してきたので、参考まで。
この時代に作家は「最後の作品」という考えを盛んに述べていて、よくわからなかった。でも次の文章を読むとどのようなことを考えていたかはわかる。
「あきらかにものを見る目を穏やかに示す作品を書き上げ、勇気に満ちた静けさのなかで生を終えることができたら」と願う(P127)。
大岡昇平に「叱られ」て「最後の作品」とはいわなくなったとのこと。
〈追記 2023/9/6〉
コロナ渦中に断捨離を進め、思うところがあり、「文学再入門」のVHS、DVDともに廃棄しました。ご連絡まで。