odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

大江健三郎「キルプの軍団」(岩波書店)

 キルプというのはディケンズの「骨董店」に登場する矮人の悪人のこと。老人と少女ネリの経営する骨董店を乗っ取り、ほかにもいろいろ彼らに迷惑をかける悪党の親玉であるらしい。1988年初出のこの小説では、翻訳はないということになっていたが、その数年後にちくま文庫に収録。あいにく現在(2012年)絶版中。自分も未読。で、少女ネリの薄幸ではあるが、けなげで明るい生活が描かれていて、どうやって人生の悲惨さとか苦痛から幸福を獲得するのかというのがたぶんディケンズの主題。でもって、この小説ではさらに、ディケンズの熱心な読者であるドストエフスキーの「虐げられた人々」も読むことになる。あわせて旧約聖書のイサクのスケープゴートの話もでてきる。これらの小説は、作品中の出来事に照応することもあり、書き手の少年はより重層的な思いにふけることができるわけだ。小説中ではあまり言及されることのない、イサクの話(アブラハムによって神へのいけにえにされそうになる)は、原さん(映画監督)の死と作者の言う「罪のゆるし」について考える手がかりになるので、原典にあたっておくとよい。

 小説の中で小説の読み方について勉強するとはこういうことか、と反省することになる。なにしろ進学校の高校2年生がディケンズを原文で読み、いくつかの研究書も原文で読むという具合で、ドスト氏の長編も1週間足らずで読む。原文を読むときには、まず大意を読み取れ、引っかかったら声を出して読め、で辞書を引いて意味を知ったらもう一度やりなおし。なるほど俺はこんなふうにpaperbackを読んではこなかった、と顔を赤らめることになる。
 さて、この読書会の話も面白いのだが、大きな話はサーカスの一員で退職した今は、もと過激派の映画監督と同棲する女性に関すること。退職と出産で借金を持つことになった彼女は、サラ金の取立てで全国を転々としていて、危険なのではないか。そこで調べると、神奈川県の山あいで電気水道のない地下壕あとで子供を含めた三人で暮らしている(まずここで「洪水はわが魂におよび」のシェルターを思い出そう)。出資者が現れ、借金も問題はなくなり、劇場映画を製作することになった(ここらへんは「性的人間」の語り直し)。そこには森くんという青年とサッチャンという女性がいっしょにいる。あと、映画監督と同世代のカメラマンもいる。どうやら映画監督とカメラマンは1960年代の新左翼の活動家。党派が分裂し、敵対したときにはいがみあいもしたが、時間の経過(と身体の老化と活動の消耗)で解消している。でも、映画撮影の協力者らしい青年たちは不気味な様子でいて、むしろ監視のためにいるらしい。ときに彼らの討論が古い運動のはなしになるときに、青年と映画監督ですれ違いもあって。でもって、子供の自閉症の疑いと風邪の治療のために地下壕のある拠点を離れたあと(ここも「洪水はわが魂に及び」を繰り返し)、党派のために子供を人質にとったと宣言する。ここは1988年の初出年に読んだ時もアナクロだなあ、と感じたところ。それは当時の自分の年齢にあるからで、連合赤軍事件中核・革マルの内ゲバを当事者としてしっている世代にはアクチュアリティがあるのだろう。あるいは新興宗団のアナロジーでみたほうがよいかな。ポイントは、同じ党派の襲撃班に襲われたとき、自分の名前を叫べばテロをやめさせることができるのに、そうしないで死んだ映画監督の決断。本人は公然活動担当で、内ゲバの襲撃をしなかったにせよ、過去の党派の殺人に対する「責任」について苦悩していた。映画監督の選んだ受苦というのが正しいかどうかは俺にはよくわからんので、そういう苦痛と苦難を引き受けるのもひとつのありかたというにとどめておくか(のちに「宙返り」で再話される)。まあ、連合赤軍の事件を主題にする作家は非常に少ないので、そこは貴重。ただ、作家は党派活動や非公然活動を文書でだけ知っているので、運動や党派の当事者であった埴谷雄高笠井潔ほどに突き詰めてはいないという指摘をしておく。
 小説の語り手は17歳の高校生(進学校の生徒ということで「セヴンティーン」の語り直し)。彼の世界は家庭と学校のみ。加わるのは、父の弟で、暴力犯担当の刑事で、ディケンズの熱心な読み手である忠叔父さんのみ。それくらいに世間にうとく、コミュニケーションの取り方にも慣れていない。それが、叔父の依頼で映画監督と一輪車乗りの女性の家族の様子を見に行くことで、自分の所属しない社会、大人の世界に触れていく。そこにある性的なものとか(風呂上がりの女性の乳房に見とれる)、暴力とか(子供が誘拐されるとこと、女性救出のために忠叔父さんがひとりで奇襲すること)、不条理とか(外部に関心がなく自閉症と疑われる子供の存在や、映画製作を手伝う青年たちに理由なく無視・敵視されること)に直面する。彼個人は誰も救えず、ときには他者に迷惑をかけることになる。結果、熱を出してうわごとをいい(「飼育」「同時代ゲーム」の再話)、身体の回復が精神の回復になる。ドスト氏「罪と罰」、志賀直哉「暗夜行路」と同じモチーフで、この小説を書いていたころに読み直していた(「新しい文学のために」「文学再入門」など)。子供がおとなになるためのイニシエーションだな。父母ほかの庇護があるので、イニシエーションはかつてのように苦痛を伴う(「芽むしり仔撃ち」「飼育」など)ものではないのは僥倖。なので、モデルにした小説ほどの成功はしていない。
 少年の語りにしたことで、深みはないぶん、語りがナイーブで、複雑な構文や凝った比喩がないので、最初に手にするのにいいのではないかな。語り手の同世代(高校生)が読むのがよいと思う。作家の常として性と暴力があるので、PTA推薦というわけにはいかないし、大学受験の役に立つも思えないけど。自分は再読して、上記のような懐かしのメロディを聞けて楽しかった。