odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「懐かしい年への手紙」(講談社)-3

 この小説には4つの時間が流れている。
 ひとつは現在(作品中の)であって、東京でくらす「僕」の一家がしばしば村を訪れ、「ギー兄さん」他の消息を聞くこと。ここの時間に登場する人たちは、すでに生活の仕方を選択しおえている。なのでこの時間にいるにひとには変化は現れない。「ギー兄さん」ひとりがトリックスターとなって、てんやわんやの騒動を起こし、他の人たち(「僕」とその家族、母や妹、セイさん、オセッチャンなど)をはらはらさせ、あとしまつに翻弄させる。まあ「ギー兄さん」はそのうっくつも分からないわけではないが、迷惑をかけずには生きていられない人なのだな。そういう種類の人を道化とかトリックスターと呼ぶのだろう。
 次の時間は、「僕」という作家の半生。村にいる間の15歳くらいまでは「ギー兄さん」の時間とも重なる。ここでは、「僕」という夢を見る力に秀で、森の神話=歴史を聞きいずれ文字に書き起こすことを期待されている選ばれた子供のこと。でも、はた目からすると、夢見る力の強さで、ふだんはぼうとしていて、自閉的で、道化になること以外には人との関係を築けないという弱点をもっている。作家のひきこもりがちな部分を拡大するとこういう人格になるのだろうな。おもしろかったのは、作家になったあとに、「ギー兄さん」によってなされる作品批判。作品にある弱点(引きこもりがちになるところとか、借り物の思想で取り繕っているところとか、政治とのかかわりをサルトルの想像力論で補完しているがそこに欠点というか足をすくわれるよわさがあるとか)が記載されていること。それは当時から別の批評家などで指摘されていたことであるだろうし、今読み返しながら自分が見つけたこととも一致する。作家の2011-12年の言動を見ていると、ここに記載された問題は克服されていないなと思った。
 もうひとつの時間は、「ギー兄さん」の半生。ここはフィクショナルなところが多くて、作家のなかの無軌道、無計画で、思いつきを人に諮らずに実行する部分が拡大されているのだろう。「根拠地」「美しい村」という地域再生とか村落の活性化にあたような企画は実現可能性の高い内容を持っているけど、人を巻き込んで着実に実現するプロジェクトマネージャーの資質はなさそうだ。なので、いくつかの事件で内紛を起こすし、人の怒りや不満を買うしで、ずっこけてしまう。はたから見れば嘲笑と失笑を誘う。彼の行うことは「壊す人」の再来であり、従来の村の形式を壊すことによって、共同体を再生させようという試み。なるほど神話時代のだれもが貧困で平準化されているとき、「壊す人」の構想力は村の創造にやくだったわけだが、資本主義の貫徹した現在の村ではそれは挫折せざるをえない。これは小説の想像力だけではどうにもならないなあ。
(以下余談。「ギー兄さん」の試みを端緒として、さまざまなひとが村=国家=小宇宙の再生に挑んだ。それはことごとく失敗している。「燃え上がる緑の木」「治療塔」「宙返り」など。というのも、村の経済的自立だけでは不満足であるし、「根拠地」「美しい村」のような信義の共同体ではカルト宗教の出家・隠遁施設との差異がなくなるし。神話的なユートピアの今日的な再生はかくも困難で、安易な成功を書くわけにはいかない。)
 これらを包む大きな時間は、村=国家=小宇宙の神話=歴史。ここでもギー兄さんに「僕」は村の神話=歴史に習熟していて、村の出来事や彼らの構想を神話=歴史になぞらえて考えるようにしている。ここでは「壊す人」や「オシコメ」という神話時代のヒーロー、ヒロインの不死伝説や森の木に宿る魂などの宇宙観・生命観に基づいた循環的な時間があるわけだ。上記の3つの現在の時間は、この神話=歴史の循環的時間に取り込まれる。今生きる人々もいずれは神話=歴史の登場人物をして語られ、いずれ似た役割を持つ人として再生するだろうことが予想できる。こうやって繰り返される時間、人の一生を取り囲む巨大な時間がたぶん「懐かしい年」であるのだろうな。そこでは今起きていることは過去起きたことで、いずれ起こることであるのだからね。そういう循環する時間に、情報を付加して神話=歴史を豊饒なものにするのが「手紙」であるわけか。
(となると、「芽むしり仔撃ち」「万延元年のフットボール」「同時代ゲーム」「M/Tと森のフシギの物語」などの村=国家=小宇宙サーガもこのような「手紙」に含まれるのか。それを読むことによって読者は、神話=歴史の登場人物になれるのかもしれない。)