odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「懐かしい年への手紙」(講談社)-2

 ここではもうすこし小説の中に沿って。そうすると「ギー兄さん」について書くことになる。
 「僕」の5つ年上という設定なので、1930年生まれか(武満徹が同年生まれ)。村の大地主の息子で、唯一進学したインテリ。ほかの村の子供たちが家の仕事を継いだのとは大きな違いになる。この人格の面白いのは、通常は自閉的でなかなか人との交わりを持たないのだが(まあ、進学するくらいの知性の持ち主で、同等の友人が不在だからね)、といって閉じこもっているだけではなくて、特別な神性をもっているところかな。彼はたぶん「壊す人」(この村の創世神話に登場するトリックスターで、神のような力も授かっていると思いなせえ)と霊的に交流することができる。というのも、彼の前の2人の子供が幼児期に死亡したので、6歳まで女の子として育てられ(かつては珍しい風習ではない)、神がかりの力を持っていて「千里眼」をすることを村の女性たちに期待されていたから。戦時中に夫ほかを徴用されて、ひとり残る主婦のために「千里眼」をするところが印象的。
 でもって、神性なところがあるとすると、父母、祖父母がいなくて、まかない兼お手伝いのセイさんと10代半ばから性的関係にあるというところ。まあ、性的な放縦さも許容されていて、村人からは黙認されていた。富と性が彼の周りに集中していて、その家柄もあって、彼は村のなかで大事にされている一方で、のけものになっているわけだ。その両義的な意味付けが顕になるのは、まず敗戦後の復員兵が彼の妻や姉妹に行った「千里眼」のいい加減さに怒り、祭りの山車にかこつけて彼の家を襲撃するところかな。そのまえには、かれをリンチすることまでやっているわけで、「ギー兄さん」は聖性と同時に攻撃誘発性(ヴァルネラビリティ vulnerability:英語の講読でこれを作家の訳語で発表したら教授に怒られた)をもっている。この少年時代に起こしたことが最初の出来事。
 二番目の出来事は、1960年安保のあとに、「根拠地」運動をするところ。高度経済成長で昔ながらの林業がだめになり、村の経済は立ち行かなくなっていた。そこで、彼の発案と投資でこの村に自立した農林業を構築しようという運動が行われた。杉をクヌギに植え替えてしいたけ栽培をするとか、村と里の堺を放牧地にして牛を飼うとか、村の水源近くに人造湖を作って観光施設にするとか、アソシエーショナリズムのような共同事業を作ろうとする。それなりの支持を獲得するも、新劇女優をめぐるいざいこざで、強姦致死事件を起こす。
 三番目は出所後に、自分の地所に人造湖を作る。個人的なl根拠地をつくる構想だ。しかし、人造湖は臭いにおいの黒い水をたたえ、昔の一揆のできごと(村で川をせき止め下流の村を洪水と汚水で被害を与える)を思い出させて、下流の人々といざこざを起こす。
 まあ、いったいに善意の人で知性を持つ人であるとはいえ、なにごとかのヴィジョンに熱中したとき(それも村の神話=歴史に関与するアイデアのとき)、周囲への配慮をなくし、意固地になるような人。それでいながらも、自信を持ち、根回しほかの政治的寝技で支持を獲得することもしない。応援者は血縁のほんの数人のみ。まあ、ナイーブであって憎めないけれど、その行動と言動で周囲をいらいらさせ、敵意を醸し出してしまうのだ。そうすると、おのずと攻撃を受け(ヴァルネラビリティの持ち主)、配慮したつもりの行動が目的を達成しないでむしろ自分を傷つけ他者に迷惑をかけ(中国外遊中の「僕」は新妻をほったらかしにしている、まずい、と思い込んで夜行で1960年6月の国会前に行き、頭蓋骨骨折の重傷を負うとか、新劇女優と大学生と自分の三角関係で死者をだすとか)。
 神話となぞらうのであれば、この人は「壊す人」の再来なのだな。沈滞した村(敗戦のショックとか、地場産業の停滞とか)に活気を取り戻すためのアイデアをたくさん持っていて、それを実行しようとするものの、村人の抵抗というか反感というか安定志向というか、そういう無言の抵抗にあって、やることなすことしゃべることが思惑とずれて笑いものになり、あげくのはてに反感の末に惨殺されてしまう。そういう現在の村の神話=歴史を再現する人なのであった。
 これはたぶん作家の人格の一つの傾向を拡大したものでもあるはず。こういう道化でもあって、攻撃をうけてたじたじとなり、ときに効果的ではあるかわからない反撃をして、しかしその行為の正当性に思い悩んで抑うつ状態になり、周囲のおだてにあわせて調子に乗り、しかしその幼児性をせせら笑われて被害をこうむり、本人自身は破滅するのだが、再考させるなにごとかを記憶に残らせるトリックスターなのだろうな。そのような一員であるような蛇行する人生を送ることによって「ギー兄さん」は神話の一員に迎えられ、森のいずれかの木の下にももぐりこみ、再び森が沈滞してときに、再生するのだろう。それを期待するのがこの小説の願いかしら。