odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「河馬に噛まれる」(文芸春秋社)-2 見えないところでその場所を活性化する大事な役目をやっている「河馬」が世界的宇宙的な癒しや希望につながる、という。

 1983-85年に書かれた短編のうち、モチーフを同じにするものを集めた。

連合赤軍および浅間山荘事件の主犯たちに死刑を含む地方裁判所の判決が出て、注目されていたころ。「東大安田講堂」落城15周年などで全共闘を懐古する出版物がたくさんでたころ。

河馬に噛まれる ・・・ 「連合赤軍事件」から約10年。逮捕されたもののうち、未成年であった者の消息を知る。そこから、過去に「河馬の勇士」と呼んだ青年のことを思い出す。もちろん山岳ベースでの武装訓練と自己批判は例の凄惨な結果を生んだのだが、この未成年は便所掃除をすることで生き延びる。事件後は刑務所内で生きる意欲を失っているが、糞便処理のことを思いださせることで生き生きとした返事をするようになる。ここでは彼の糞便処理の構想と、河馬の生態系の役割(自身が動き回ることとくそをすることで川に通路を開き回復させる)を重ねる。糞便という穢れを生と重ね合わせて、再生のイメージを持たせること。

「河馬の勇士」と愛らしいラベオ ・・・ ラベオは河馬にまとわりつく魚で、河馬の糞や川に落ちた草を食べ、河の食物連鎖に入っている。この小説で、「連合赤軍事件」で殺された女性の10歳年下の妹が登場。姉の死んだ理由、考えていたことを知るために「河馬の勇士」との連絡をつけたいと願う。将来の波乱を暗示する予告編。

浅間山荘」のトリックスター ・・・ H・T(林達夫)の死をめぐる回想がいつのまにか、架空の人物ユージン山根を誘い出し、彼の大ぼらでシナリオを書くことになった「浅間山荘」事件にたどりつく。山根(この映画製作のディレクターから宗教コミューンの教祖に転身した男は「宙返り」の教祖にかさなりそうだ)のいうには、「浅間山荘」事件はその時代の恐怖と希望をなんらかの形で反映している「祭り」であったという。どのような恐怖と希望かはいまだにわからないが、そこに赤軍派と政府を仲裁することを買って出て殺されたスナック経営者を挟み込むことによってイメージが深まるのではないかという述懐。

河馬の昇天 ・・・ 「河馬の勇士」と殺された女性兵士の娘との後日談。「河馬の勇士」は指導者M・Tの自己批判書を持っていて、それを読んだ娘と議論する。娘は、M・Tの「確固とした教会」を作る態度に感銘し、教会を打ち当てるためにはわが身を捨てても構わない、殺された姉よりも思想の堅固さにおいてM・Tを指示する。「河馬の勇士」は、みっともなくても生き続けるほうを選ぶ、教会を建てるために人を殺すのであれば、そのような教会は拒否、ただし自分の行動の誤りは清算されなければならない。連合赤軍の、あるいは新左翼の党派活動をさらに拡大して普遍的な問題に広げる。古くはカタリ派の壊滅であり、聖バーソロミューの虐殺であり、ルネサンスの異端審問であり、19世紀ロシアのテロリストであり、この国の攘夷派であり、行動右翼たちである。

四万年前のタチアオイ ・・・ シルクロードを旅行中に作家である「僕」はタカチャンという姉のような女性を思い出す。作家の性的成長を促すとともに人生と小説の批判者であった女性。彼女は、京大全共闘に共感する助手であったし、けがをしたのちは「河馬の勇士」と文通しているころの「僕」を励ますものでもあった。その彼女は病み死ぬのを待っている。

死に先だつ苦痛について ・・・ タケチャンというトリックスターのおはなし。若い頃は作家と同居し、障害を持った息子の誕生に立会もした男。元全共闘で、後に旅行会社を設立。それなりの成功をしたものの自分にガンができたために、「カーゴカルト運動」の妄想をもって、ハイジャックを決行しようとする。その途中で組織の反対者を「総括」し、準備のずさんさで自身は欲望していた自爆もできずガンの苦しい治療のうちに死ぬ。彼の組織はもちろん逮捕。まず表層からいうと、タケチャンは「日常生活の冒険」その他でお馴染みの行動して作家に混乱をもたらし自滅するものだ。若い時の作品と異なるのは、このトリックスターが死に脅かされ、自分の死をそのまま世界の破滅に重ねようというところ。のちの「宙返り」の教祖だ。彼(および作家)は死に先立つ苦痛(それも現代医療のためにゾンビのような、あるいはチューブ人間のような死と生のあいまいな境にあること)を異常に恐る。これは「セブンティーン」の高校生の死の恐怖の続き。異なるのは、観念的な死がここでは肉体の痛みという現実に変化していること。「荷物カーゴ運動」というのは、直前に「人民寺院」事件があって、注目されたカルト宗教の運動。まあ、選抜されたエリートが世界の破滅をくりぬけて宇宙的な秩序に参加しようということだな、外側から見ると。この運動に興味をもったのは書かれた年からすると極めて早い時期だった(作家は世界の危機に最初に反応するという著者の意見を具体化しているかな)。「洪水はわが魂に及び」のときよりももうすこしリアルな設定である。とはいえ、ずさんこのうえなく、なぜタケチャンが教祖ないし結社の指導者になったのか、信者ないし結社員はなぜ彼の言うことに唯々諾々と従ったのか、そのあたりの説明は不十分。それに肉体の苦痛を恐る、そこから生の尊厳とか意味を問うという設定も、シモーヌ・ヴェイユの受苦の思想と実践を知ったものからすると、どうにも底が浅い。「連合赤軍事件」の「総括」による死者と魂の結びつきをえたいという欲望があるみたいだが、それにはまったく成功していない。過去の作品を切り貼りしてつくったこしらえもの。俺は、駄作とみなす。

サンタクルスの「広島週間」 ・・・ 生に苦労しても陽気に回復する力を持つ女性作家(被爆体験を小説にした人たち)と、結婚式の直前にウイスキー睡眠薬で救急搬送された作家。糞が登場するけど、ここではイメージを喚起することはなく、たんに下品なだけであった。どうでもいい小説。

生の連鎖に働く河馬 ・・・ 「河馬の昇天」の後日談。「河馬の勇士」は娘と結婚。妊娠した娘は精神が不安定な一時期をすごす。帰国することにして作家の別荘を一時期借りることにした。乳児の首のすわりが悪いので、診断してもらったらダウン症候群と判明。一方、作家である「僕」は小学生のころの死に直面した記憶(岩場で水浴中、溺れかける。上級生のいじめで蛇の巣穴に手を突っ込まれて咬まれる)を思い出す。その時の再生の感じを、「河馬の勇士」の未来に重ね合わせる。


 河馬は一見鈍重で大儀そうな風に見えるが、大きな体で川や沼を引っ掻き回して水の流れをつくり、糞を食う魚を引き連れて、濁り腐る川や沼の浄化や食物連鎖に貢献している。その場所を活性化する大事な役目を見えないところでやっているというわけだ。その河馬と重ねられる「勇士」に、死者の記憶を持ちながら夫婦生活を開始し、この国で仕事をすることに希望をみいだそうとする。「勇士」の死者の記憶は、彼が短期的に務めることにした移動動物園の飼育状況に重なる。ひどい衛生状態で、獣医もいない中で放置され虐待されている。リンチ殺人の死者のイメージが重なり合う。そのような場所にいる動物の死に激怒し、状態を改善するまでやりとげようというのが、彼の決意となるのかな。長年の孤独とひきこもりからぬけて、世界にコミットするようになり、それが個人の回復につながる。そこに癒しとか改心とか希望を読み取ることは可能。
 でも、それが宇宙的、人類的な癒しや希望につながるかというと、はてさて。語り手が自分の生活を自堕落で優柔不断でおよそ社会性に欠けているのを自虐的に書いているので、フィクショナルな人物たちの行動とか生活が輝かしいように見える。でも、「勇士」の生活は別の特別で特殊なものではないよなあ。作家が「日常生活」を希望のように語るのはいいんだけど、それは読者のロールモデルになるわけではない。少なくとも自分の参考にはならないねえ。
 のちに講談社文庫で再刊されたときには、「浅間山荘のトリックスター」「サンタクルスの広島週間」が外された。これが読めるのは、単行本か文春文庫のみ。いずれも絶版か品切れ。苦労して入手するようなものではないと思う。