odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

大江健三郎「青年へ」(岩波書店)-2 「にせ科学」という言葉の用例

 収録されたエッセイのうち、「読書家ドン・キホーテ朝日ジャーナル1972年11月3日号)」に注目。
 作家は1965年から7年間、週刊朝日の書評委員を担当してきた。7年間で350冊あまりの本を紹介してきた。その仕事を終えたので、まとめを書いた。国内の文学を取り上げるのは避けて、海外文学をよく取り上げたけど、おなじくらいの熱情で科学や科学史の本を取り上げてきた。その際、科学者は自分の仕事は詳細に観察するが、歴史や社会に向き合うことがなく、その無邪気さが差別主義や人権侵害に結び付きやすいことを指摘したあとで、下記のように書く。

「僕は書評会の席でさまざまな専門家たちの話を素人の立場で聞かしていただく、幸運を経験してきたのでもあったが、とくに科学者、科学史家の話から鋭く強い喚起力を感じることが多かった。そしてそれは、いまふりかえってみると科学の言葉を、あいまいなまま自分の文学の言葉にとりこむことをせず、むしろ文学の言葉を拒む厳密さをあらわにしている科学の言葉に、それこそ素人としてなんとか近づこうとする時、しばしば科学者と文学者の話し合いの場所で、文学者側があまりに柔軟に素早く、科学の言葉を自分流にシュガー・コートをかぶせてのみこんでしまう時、科学者の表情に苛立たしい断念のごとき色合いが浮かぶのを見ることがあった。それは科学者が素人向きに書いた啓蒙書の読まれ方においても、おなじ現象がおこるように思う。科学者が真につたえたいことよりほかのことをやすやすとあいまいにのみこまれてしまう困惑。(P238)」

 のちのソーカル事件で注目を浴びたように、科学の言葉をあいまいに使って、自説の補強にすることがある。引用される科学の言葉があまりに専門的なので読者には当否が判断できず、誤った解釈が流通してしまう。自分が目にするのは、アインシュタイン相対性理論ゲーデル不完全性定理、現代進化論など。書かれた時期のまえには、「未来学」や「カタストロフィー理論」などが流行って、文学者のみならず社会学者ほかが盛んに議論に使っていたのを思い出す。
 続けて以下のように言う。

「それがそのままで終わればよいが、たとえばにせ科学(にせに傍点)主義の早のみこみが、為政者の企画と癒着して、しかもその早のみこみをしたやつが強権のための宣伝係をつとめるということになれば、歴史の法廷でかれは無罪ではありえぬだろう。それぞれの専門分野の科学者が、為政者の意を体して、わざわざ、にせ科学(にせに傍点)主義の早のみこみを誘導するようなことをする時はなおさらである。僕はこの七年間、そのたぐいの誘導をおこなう科学者と(それは社会科学者をふくんでいる。なにかといえば数字を濫発して、亜学問的でかつ俗耳にこびりつきやすい雄弁を、活字から電波メディアにふりまく経済学者など枚挙にいとまがない)、早のみこみして宣伝係を買って出た人びとの本をいかに多く見てきたことかと思う。(P239)」

 「にせ科学」「ニセ科学」「偽科学」「エセ科学」という言葉がいつから使われたかを文献で遡るのはなかなか大変。「ニセ科学」はいちおう1980年代前半のガードナーやシャーマーの翻訳につけられたのが最初らしい。とはいえ、「疑似科学」まで含めるとSFでの用例が出てくるので、混乱する。とりあえず「科学ではないのに科学を装ったもの」として使う用例としては上記の文章はかなり最初の時期になるだろう。作家の発明とは思えない(そういう言葉であれば、もっと詳細な説明をしている)ので、すでに当時流通していたのだと思う。
 発表当時であれば、「にせ科学主義の早のみこみ」にあたりそうなのは、「血液型性格診断」に「バイオリズム」に「ノストラダムスの大予言」あたりかな。ヴィルヘルム・ライヒが流行っていたから「オルゴン・エネルギー」「フリーエネルギー」もあっただろうし、「アクエリアスの時代」から占星術も含めていたかなあ。経済学者云々はクルーグマン「良い経済学悪い経済学」(日経ビジネス文庫)に書いてあるように、いい加減な言説をするやからは当時からいたのだ。

「それらの書物に対する抵抗力をやしなうためには、やはり素人は素人ながらに、科学の言葉は科学の言葉として、それをまるめたり砂糖にまぶしたりしないで受けとめる訓練を自分に課さねばならぬだろう。僕は、次回の心をこめてそう考えるものだ。そのような訓練は子供の読書においてはじめうるものであり、かつそこにおいて、効果もまたもっとも著しいのではないであろうか?(P238-239)」

 抵抗力をつける方法は、訓練と啓蒙であるということだな。とはいえ、2011年の原発事故以降のデマとパニックの蔓延は、それでけでは不十分らしいということで、なかなか解決しがたい。あと、子供の読書はなるほどそうかもしれないけど、中学から高校を経過すると、子供の読書で身についたことはいったん消去されるのだよ。なにしろ「中二病」(このあいまいな言葉!)のアイデンティティ・クライシスは権威の否定と懐疑に取りつかれるからねえ。それに読書や勉強を学校のカリキュラムとは別に継続的に行う人は少ないし。
  すごく古い本になるがショウペンハウエル「著作と文体」(「読書について」岩波文庫)に、ニセ学問を見分ける方法がかいてある。今でも参考になるので、あわせてみておきたいところ。