odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

アルフレッド・コルトオ「ショパン」(新潮文庫)

 アルフレッド・ドニ・コルトー(1877年9月26日〜1962年6月15日)の書いたショパンの論集。7つの小論がまとめられていて、それぞれがいつ書かれたものかは不明。コルトーは、ショパンの録音(前奏曲と練習曲の全曲が有名)を残している。戦前のショパン弾きの代表。また研究者、著述家でもあって、これ以外にも本を残している。ショパンは1846年に没しているので、コルトーと時期は重ならないが、若いころにはショパンを知っている人が高齢で存命だったので、証言を拾うことができたらしい。

肖像画を通じて ・・・ 3つの肖像画とメダルの横顔とゲダレオタイプに残されたショパンの肖像をスケッチ。ゲダレオタイプは死の年に撮影されたらしいが、貧弱な体の持ち主で繊細、神経質というイメージを覆すような肖像。真偽は不明。

ショパンの手 ・・・ 「音楽家中でもっとも奇蹟的なピアニスト(P33)」と著者が表するショパンの手について。手に関心を持つのは著者がピアニストだからだろうなあ。臨終のショパンの横顔のスケッチと手の蝋型の写真が添付されている。本文よりもこちらの方が興味深い。あいにく、著者が言うほどピアニストとしてのショパンの評判は高くない。まあ、サロンでは弾くがコンサートをしなかったからだろうな。

教師としてのショパン ・・・ ショパンは生計をピアノ教師としてたてていた。あいにく教え子から高名なピアニストがでなかったので、スクールをつくるまでにはならない(リストと異なるところ。ショパンの直系の弟子の系譜がないので、ショパンの奏法を伝える人はまずいない)。あとショパンの手稿を入手した話とその紹介。著者のいうように、無味無臭の価値のない文章。

ショパンの作品 ・・・ ショパンの書簡300通強がまとまっているので、それを参照しながら、作品を説明。

ショパンがフランスに負ふもの ・・・ 父がフランス人だった、亡命後拠点にしたのがパリだった、くらいの共通点。サロンに集っていたので、文人バルザックドラクロア、ほかに今は忘れられた作家など)と交友があったが影響関係はないにひとしいくらい。あと、ベルリオーズダヴィッドらの作曲家(次章ではリスト、アルカン、メンデルスゾーンシューマンもあげられる)との交友が認められるが作品に影響したかというと疑問。以上の二つは要領の得ないあいまいな文章。

ショパンの演奏会 ・・・ ショパンは生涯に30数回(きわめて少ない)の演奏会を行った。そのプログラムと共演者を発掘して、演奏家として、プロデューサーとしてのショパンを描写。

ショパンの性格 ・・・ 幼少期から亡命までの音楽教育と、パリ到着後のおもに恋愛模様を描く。どうやらショパンには孤独癖、憂愁の感情があったらしく、リストのような社交性やメンデルスゾーンのような華やかな交際もできなかったらしい。内気といえばシューベルトもそうだけど、こちらは友人たちとの気楽な集まりでは人気者だった。そうではなく、引きこもりになりうるショパンは女性がそばにいないとだめだったらしい。幸い、モテるようだったらしく、サンドと別れてからの晩年以外は誰かが彼のそばにいた。あとコルトーの注目するのは、幼児性や異邦人としての疎外感、サロンでのダンディズムなど。注目するのはろくな音楽教育を受けず、ほぼ独学であったこと。それが天才を生み出した理由だし、ピアノ曲以外には欠点が目立つということになった。


 さて、コルトーはピアニストとしては20世紀前半の大家。幸いパブリックドメイン前奏曲と練習曲を入手したので、それを聞きながら読んでいた。コルトーの演奏は、「ヒーリングミュージック」としてのショパンではない。聞こえるのは、突き放した冷静さ、コントロールされた感情。なので、べたべたした感傷はないし、大げさな表現もない。サロンとか親しい友人を集めた内輪の演奏会で聴かれるような気楽さがある。そこにおいて、高雅さや香気が自ずと漂ってくる。まあ、音楽の貴族で、趣味のよいしっかりした教養の持ち主が醸し出す気品があるのだね。この人は人生を謳歌する達人でもあったのだろう。その分、苦悩とか諦念とか克己心とかとは無縁なので、ベートーヴェンブラームスはあわないとおもう。ショパンのほかにはシューマンドビュッシーの演奏が高名なのはそのあたりにありそう。
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 達意のピアニストであり、くわえて、文筆家。どうも文章の書き手としては優れてはいないなあ。もったいぶった、遠回しで、仰々しい文章が続く。何を言いたいのか、主張があるのかないのかわからないほど曖昧な表現。鼻持ちつかないディレッタントが書いたもの。彼の仕事はたくさんあったのだろうが、文筆家としての仕事が最も劣ると思う。たいくつだった。
 たぶん1920-30年代のインテリの文体なのだろうなあ。それが1950年代になると、例えばブレーズ(ブーレーズ、ブーレ)の文体になるわけだ。尖って、挑発的で、スピードのあるものに。第2次世界大戦が文化にもたらしたのは、こういう文体の変化ではないかな。カミュの新しさというのも、主題もさることながら、文体にもある。コルトオが戦後急速に存在感が薄れていたのは、彼の所属する階級がなくなり、貴族趣味がありえなくなったというのがある(その種の人々の政治の結果があの戦争だったわけだし)。と同時に、戦争の経験とそのあとの政治の変化を書くのに、コルトオのような貴族趣味の文体では対応できなくなったというわけだ。
(この国でも、昭和20年代に文体革命が起きた。野間宏椎名麟三吉本隆明など。)

<追記 2015/3/31>
 この翻訳は河上徹太郎によるものだけど、堀田善衛「めぐりあいし人びと」(集英社文庫 P185)によると、下訳は堀田善衛が行ったとの由。ほかにマルドリュス「千夜一夜艶笑奇譚」新潮文庫もそう。


<追記 2017/2/17>
 新潮日本文学47「堀田善衛集」の月報に堀田善衛の「少年時」というエッセイが載っている。そこでこの本の思い出がでてくる。

「戦後数年を経た頃に、コルトオの『ショパン論』という本を読んだとき、まざまざと一つのこと、ピアノ、というものを考えさせられたことがあった。コルトオのこの『ショパン論』の文章は、実に彼のショパン演奏そのものであって、一センテンスが、コンマやらセミコロンやら、それから関係代名詞がワラジ虫のごとくに節をなしてつづき、二頁や三頁つづき放しという具合であった。その長い長い一センテンスは、文章を書いているなどというものではなくて、ショパン演奏そのものなのであった。序奏と主題の展開、変奏、転調、といった具合に音楽そのものとしてくりひろげられて行く。」

 もう新潮文庫のコルトオ「ショパン」は手元にないので確認しようがないが、数ページも読点なしで続くような文章はなかったと思う。そうすると、下訳の堀田善衛はずいぶん苦労して、日本語に変えたのだろう。それでも、上のような感想になるのだから、原文はいったいどうなっていることやら。