ショパンはフランス人を父にしてポーランドに1810年に生まれた(異説あり)。1830年、ワルシャワ蜂起にあわせて亡命し、以後パリで生活し、作品を発表した。この評伝では誕生から亡命、パリ到着までを描く。そのあとのサロンでの生活やジョルジュ・サンドとの同棲には一切触れられていない。そのあとを書かない理由は著者には自明であるらしいが、読者である自分にはわかりずらい。
さて、ここでは主にショパン自身にフォーカスしているので、社会関係がみえてこない。点描されている情報をまとめてみると、ポーランドという場所の特異性がみえる。すなわちロシア(ギリシャ正教)とドイツ(プロテスタント)に挟まれたカソリックの場所であって、人数が少ないことから政治的には不安定。ショパンの時代にはロシアの属国のような扱いだったのかしら。とはいえ1791年フランス革命はいやおうなく、ポーランドの民族主義を熱くして、独立運動が呼応する。と1825年ロシアのデカブリストの蜂起はポーランドに波及したが、ロシアは弾圧した。そのあとも運動は激しくなり、1830年のワルシャワ蜂起に至る。その背景には、ようやく国内生産資本が確立して、企業経営者・工場経営者などのブルジョア市民が生まれていた(ショパンの友人は彼らの息子たち)。資本主義の自由は封建社会の管理と対立し、それが国外の権力によるものであると、独立運動になるという説明でよいかな。そういう時代にショパンは生まれた。
音楽の点では遅れていて、ようやく自国の音楽教育と作曲がはじまったころ。教育家はフンメル、クレメンティ、などのウィーン風古典音楽を規範としていて、聴衆はロッシーニやベルリーニのイタリア音楽を好んでいた。そこにこれらの規範や趣味を超えてしまう作曲家がぽんと誕生するのが奇禍というべきか。なにしろ古典音楽の模倣をするのがやっとの時期で、あっというまに教師を追い抜き、形式と内容を新しくしてしまった。それはデビュー時から(生涯を通じた)「音楽的スタイルの一貫性」が完成を示していた。ソナタや変奏曲のような古典音楽の形式は捨てられ、「即興性」「幻想性」「演劇性」ということでジャンケレヴィッチらの見方と一致。あとは、「終わることのない不安」があって、終生(といって36歳の若さで亡くなったのだが)「青春」の音楽を書いたことが大事。青春の表現は協奏曲と練習曲が典型。
面白かったのは、ロマン派音楽の特徴を次のようにまとめたところ。
「ロマン派芸術の本質には、恐らく一人の創造者の内部における聴衆と芸術家の分裂の意識と、創作による両者の新たな統一への願望があるだろう(P240)」。
自分の言葉を加えると、ロマン派の芸術家は創作と批評を同時に行い、そこに葛藤があった(ロマン派の芸術家が寡作になる理由のひとつ)。芸術家であることと聴衆であることの分裂もあった。その統一をはかることがとても大事で、創作とは別にここを考えねばならなかった。なるほどロマン派の音楽が批評を含んでいる(ワーグナーやリストに典型)のはここに原因をみてもよいのか。
さて、ショパンは20歳でパリにいく。その前にはウィーンにいくが、ウィーンはショパンを受け入れなかった。ウィーンの音楽趣味がイタリア音楽と古典音楽にあったせいもあるが、ポーランドの独立運動に対してオーストリアが否定的であったというのがある。一方フランスはポーランドに好意的で、ショパン以外の亡命者が多く住んでいた。ここらの政治的背景が書かれていた。まあ、著者はこういう社会学的なアプローチを好まないらしいので、あえて自分は歴史や政治をクローズアップした。記述では背景に置かれて、むしろショパンの内面を推し量ることに集中している。