odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウラジミール・ナボコフ「ナボコフの一ダース」(サンリオSF文庫) ロシア語とフランス語と英語を自在に操る文章の魔術師の短編集。

 タイトルは「一ダース」だけど、収録されているのは13編。なんてサービスのよいナボコフさんなんでしょう。ロシア貴族でロシア革命で西洋に亡命。ロシア語とフランス語と英語を自在に操る文章の魔術師。その短編集を読んでみた。

フィアルタの春 1938 ・・・ 17歳のときに出会ったほぼ同い年のニーナという娘。ロシアから亡命してベルリン、パリその他を転々としているのに、なぜかニーナと出会ってしまう。小柄で浅黒いニーナには魅かれるのだが(実際、彼女は作家を夫にしている)、愛しているわけではない。すべてが薄明にあるような希薄な感情で書かれた女性のスケッチ。フィアルタは地名だが、どこにあるのかはっきりしない。それと同じくらいにニーナという存在があるのかないのかもはっきりしない。「賜物」の中に含まれていてもおかしくない短編。

忘れられた詩人 1944 ・・・ 18歳で傑作を書いて「ロシアのランボー」といわれ、24歳で溺死したはずのペローフを記念する催しに、当人を名乗る老人が現れた。現場のドタバタと革命後の紆余曲折。このコントみたいな小品はなにかのアレゴリーなのかなあ。思わせぶりな結語なだけに、作家の意図がいろいろありそうな気がする。がわからない。

初恋 1948 ・・・ ロシアの貴族の息子の夏休み。車両を借り切って、別荘に行く。フランスの少女と会って遊び、別れる。砂糖漬けのアンズを残して。懐かしい記憶と風景だけど、センチメンタリズムとは無縁。

合図と象徴 1948 ・・・ 不治の精神病で入院している息子を老夫婦が見舞いに行く。疲れて帰り、不眠と疲労に苦しむ。この夫婦もロシアの資産を捨てて革命から逃げてきたのだった。不眠と疲労と鬱屈がなんとも心苦しいなる切実さをもつ。そしてタイトルをみて、いったい何が合図で何が象徴なのかと悩む。今度は読者が不眠と疲労と鬱屈を抱え込む。

アシスタント・プロデューサー 1943 ・・・ ロシアの歌姫ラ・スラブスカ(なんとも意味ありげな名前)の映画を紹介、しているのか、噂話を再構成したのか、なんとも判然としない。亡命ロシア人の将軍がパリで失踪、どうやら背後にはドイツ軍とソ連軍のスパイの暗躍があるみたい。これは実際にあった話だそうだが、「真実」を確かめるよりも、ナボコフの言葉のマジック(映画ともファンタジーともスパイ小説ともつかない、何かのジャンルに収まることができないファンタジックな)に酔うことを優先しよう。

夢に生きる人々 1931 ・・・ ベルリンで蝶の標本を売る小さな店。店主はベルリンから外に出たことがないまま四半世紀が過ぎた。預かっていた古いコレクションがマニアに売れたとき、ようやく彼の望む採集旅行に行くことができた。夢と幻滅が交差する抒情的な一編。32歳の作なのに、なんて老成しているのか。ベルリンから脱出できないのは、作家の当時の境遇を暗喩しているのかなあ。

城、雲、湖 1937 ・・・ ベルリン滞在中の亡命ロシア人が集団旅行に当選してでかけた。一人でゆっくりしたいのに、ほかの連中がかまってばかりでうるさくて仕方がない。運の悪い青年に起きた笑劇。これは執筆当時のインテリを暗喩しているのだろうなあ。

一族団欒の図、一九四五年 1945 ・・・ 同姓同名の男が悪さをしているらしく、そのつけが「私」のところにまわってくる。アメリカに亡命して縁が切れたと思ったら、なんと親ナチスの会合に招待されてしまった。この時代ですでに歴史修正主義の考えはあったのだね。不愉快極まりない会話なんだが、どこかとぼけたファンタジーの雰囲気に惑わされ、最後はにやついてしまった。ポオ「ウィリアム・ウィルソン」の笑劇版。

「いつかアレッポで……」 1943 ・・・ 新婚のロシア人夫婦がアメリカに渡るためにフランスやスペインを移動している最中、妻が何度も失踪する。彼女のあいまいな答えを聞き流しているうちに、とうとう妻は消えてしまった。難民の悲嘆話がなぜかファンタジックな怪奇小説/ユーモア小説になってしまった。

時間と引き潮 1945 ・・・ 老人が回想をつづる。1930年代あたりのパリやその周辺の都市の風景、そのあとのアメリカがノスタルジックに描かれる。読者もその感傷に浸るようになるが、ふと気づくと、その回想記は21世紀に書かれたことになっている。つまりは執筆当時の現実を過去のできごととして描いている。この複雑な仕掛けで、現実(あくまで執筆当時の)はすでに懐かしい。

ある怪物双生児の数場面 1950 ・・・ 身体が連結した双生児の片方のモノローグ。悲惨でありながら、どこか夢のような美しさをもつ幼児の思い出。

マドモアゼルO 1939 ・・・ 幼年時代ナボコフ家にいたスイス生まれのフランス人家庭教師の思い出。

「平和な幼年の日にぼくがもっとも深く愛した人や物や、それら心臓を射ぬかれたり灰燼に帰したりしたあとでようやく本当の価値がわかるもの――ぼくはそれを取り逃がしていたのではなかろうか(P270)」

がテーマ。

ランス ・・・ 世界初の惑星間宇宙船の乗組員ランス。彼はアーサー王伝説のランスロットになぞらえられ、地球で彼の帰還を待つ老いた両親からは彼の冒険は登山のように思える。そして衝撃のラストシーン。ナボコフがSFを書くと(作品中でSFは安っぽい読物だと散々にこき下ろす)、こんなずれたものになるんだ。


 感想は…なんとも言いずらいなあ。眠気に耐えられないときもあれば、興奮してページをめくるときもあったし、いろいろ考えて手が止まることもあれば、文章をおっているのにいつの間にか別のことを考えていたりで。枚数が短くて、作品世界に入り込めたときにはもう終わりのページになるのが残念。この人のは長編をじっくり読むのがよいのだろう。
 解説にナボコフの特徴が書いてあるので引用しよう。

「色彩のゆたかな濃厚な文体、驚くばかり奔放な構成、瀑布のような雄弁、石ころのような寡黙、にじみ出る詩情、過去への痛切なノスタルジヤ、新鮮で強烈なメタファー、容赦ないユーモア(P207)」

 自分のような読み手では、ほかに付け加えることがない。リアルでありながらどの瞬間でもファンタジーのような、陰惨で暴力的なシーンでも紗幕で美しく彩られているような、悲惨で悲痛で苦痛であるのに思わずほくそ笑んでしまうような、個物がいとおしく詳細に描かれるのにシーンはどこかピンボケでセピア色になっているような、真面目であるようでふざけきっているような、そういう矛盾と対立ばかりのある作品群でした。

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