odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

小栗虫太郎「成吉思汗の後宮」(講談社文庫) 新・伝奇小説は、この国の歴史に題材をもとめず、世界史(主に西洋史)の変革期に題材をとる。

 小栗虫太郎は1946年に45歳で病没しているので、出版年から書いた時の年齢がわかる。「黒死館」のような「本格」ものは30代前半で、ここにあるような伝奇・冒険小説は30代後半。ほとんどの小説に日本人は登場しない。

海螺斎沿海州先占記 1941.10 ・・・ 室賀信夫「日本人漂流物語」(新学社文庫)に登場しそうな日本人漂流記。海螺斎(べえさい)という民間人が漂流中、オランダ船に救助される。沿海州のどこかに上陸したところで離脱。現地人や亡命ロシア人などと共同生活。食糧に乏しく、厳寒に凍え、群狼におびえる。海螺斎というのは挫折しないが、成功しなかった冒険家というところか。

紅軍巴蟆(パユー)を超ゆ 1939.5 ・・・ 1930年、第1次国共合作が破れ、共産党コミンテルンの指導下にある時代。ベトナムと国境を接する広西省。ドイツの元飛行兵が敗残の身をやつして、国民軍の占拠する町にいたが、紅軍(共産軍)の占領するところとなり、チェコの医師と身を偽っているために、紅軍と行動を共にする。彼にはプラハでいいなずけを死なせた(たぶん内戦で流れ弾に当たった)負い目をもち、一方トロツキーの経営するウィーンの本屋!で出会ったシナの娘を忘れられない。まあ、絶望したニヒリストが世界の片隅の戦場をさすらうというわけだ。この時代に、これほどの地理的スケールをもつ伝奇小説というのはあったのだろうか。

ナポレオン的面貌 1941.1-2 ・・・ ポーランドの数学者にして世界的チェスの指し手であるライスキー。彼は世にもまれなるナポレオン的面貌を持ち、不思議なことにケレンスキー(ロシア革命時の臨時政府首相)と同じ顔なのであった。ときあたかも1917年冬。2月革命直後で、レーニンのまだ到着していない今こそ、自分はロシアの皇帝になることができる。チェス的策略を考案してライスキーはペテルスブルに侵入し、ケレンスキーと会談するのだった。彼の陰謀は意外な方向に・・・。ライスキーとケレンスキーのチェス戦で「ナポレオン定跡」なるものが顕現する。これこそ「匣の中の失楽」に現れた「三劫」そのものなのである、と。さて、この時代にロシア革命を使って伝奇小説をこしらえるとは、まあなんという壮大な試みか。ヒルトン「鎧なき騎士創元推理文庫ロシア革命を舞台にした冒険小説。マレーネ・ディートリッヒ主演の映画もある。

成吉思汗の後宮 1938.4 ・・・ ジンギスカンはインドを攻めなかったがそれはインドの王が巨大な宝石を献上したから。以来、宝石の行方は知れず、「成吉思汗の後宮」の名と、ジンギスカンの墓に埋葬されているという伝説のみ残る。さて、満州に進出した日本軍はその行方をおい、ジンギスカンの末裔を捜そうとしていた。ようやく探し当てた満州人の運命…

破獄囚「禿げ鬘」 1937.2 ・・・ バスティーヌ監獄に鉄仮面あれば、倫敦塔には「禿げ鬘」がいる。いずれも仮装のうえに自分が何者であるかを告白しない。さて、17世紀初頭に獄舎に奇怪な男がつながれた。この「禿げ鬘」はいつでも脱獄できると豪語し、過酷な獄舎の境遇にも耐えていた。そこに時の宰相バッキンガム公が訪れ取引を持ち出す。同時期に、久生十蘭が「鉄仮面」を書いているので、その対抗心からかしら。

皇后の影法師 1936.8 ・・・ 1793年フランス、パリ。マラーの暗殺で血に飢えたジャコバン党は王党派の狩り出しにやっきとなっている。そこに「百合家の騎士」なる怪盗がマリー・アントワネットその他の死刑の邪魔をする。場末の飲み屋にはオーストリアから派遣されたスパイがなすところもなく酒びたりとなり、王宮の侍女から街娼に転落した三人の娘と戯れる。一方、大臣フーシェは現れた暗号の解読に頭をひねる。もったいないなあ、もっと枚数をかけてゆっくりと書かせたかった。そうすると、フランス革命を舞台にする伝奇小説の傑作の最初になったものを。作者が「二都物語」「紅はこべ」を愛読書にしていたエピソードを思い出した。カー「喉切り隊長」が同じ時期の歴史冒険小説。

金字塔四角に飛ぶ 1937.9 ・・・ 1496年、インド貿易はヴェネツィア商人とハンザ同盟によって独占されていた。おりしも大冒険時代の開始期。ポルトガルの命知らずがアフリカ南端通りの海路開拓に乗り出した。それを阻止するために、ハンザ同盟の策士が暗躍する。ひとつはダ・ガマ兄弟の船に密偵を放ち、自身はエジプトに乗り込むのだ。このストーリーに絡むのはアトランティスにピリ・レイスの地図にギザのピラミッドにエジプト王の呪いだ。このオカルティックな小道具もこの作者なら許す。あいにく、枚数が足りない。もったいない。金字塔はピラミッドのこと、念のため。


 作者の伝奇小説は、この国の歴史に題材をもとめず、世界史(主に西洋史)の変革期に題材をとる。上記のように革命に、大冒険に、漂流譚に、と舞台は世界中を駆け巡る。これだけ広い世界と歴史に題材をとったのは珍しいのではないか。それは時代に先駆けすぎているのだし、この国の読者が楽しむにはハイブローすぎた。繰り返すが、もったいない。
 あと、探偵小説趣味は幾分か残していて、たいていの題材に暗号が登場し、コイツは実はあいつだったというのが最後に明かされる。

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