odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(河出文庫) 黒死館殺人事件4 「客観的」「合理的」な思考よりも象徴思考や呪術的思考が優先される「本格」探偵小説。

2014/05/22 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(現代教養文庫) 黒死館殺人事件1
2014/05/21 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(ハヤカワポケットミステリ) 黒死館殺人事件2
2014/05/20 小栗虫太郎「日本探偵小説全集 6」(創元推理文庫) 黒死館殺人事件3 の続き


 4回目の再読。もちろん過去の読書のときに頭に入れたはずの情報はないに等しく、初読と同じだったというのは読む快楽を楽しむにはよいことだ。この空前の探偵小説は、どうにも読者の物理的現実とは別の世界でおきているとしかおもえない。毒物学も薬理学も生理学も、物理学も、歴史も、古文書も読者の現実世界にあるものに似ているようだが、どこかずれている。そこを詮索して、「正しい」記述に変えようとしても、きっと挫折するだろう。竜舌蘭を使ったトリックは戦前の内外探偵小説に頻出するとはいえ、この小説で記述されるような性質は持たないに違いない。と言う具合に瑕疵を見つけようと思えば、どのページにもつっこみを入れることが可能であるのだが、そこはそれ、瑕疵があるゆえにこの小説を愛好する仕儀になる。これほどに読者の現実世界の憂いを遠くにおしやり、反地球とも読書の桃源郷ともいえる異世界をうつつのものにする力のある小説はめったにないのだ。

 ページをめくる手が止まらず、次を知りたいという思いが走る一方、最後のページに到着するのがもったいない、なんとか引き延ばしたいという欲望がよぎるのも、これもまた読書の快楽。今回の再読においてそのような快楽を得ることができたのは、いささかなりとも知識とか教養とかを獲得した成果であって、西洋中世から近代の歴史のおおよそを知り、神秘思想から科学史までの人名と書物を覚えたからに他ならない。この本を読むためにのみ知識と教養を得るのは馬鹿げたこととはいえ、そこで身に付けたことは別の読書にやくだつのであって、忌避するほどのことではない。
 でもって、この小説のキーワードのいくつかをあげてみると、
・「特異体質」。神秘四重奏団の4名に限らず、降矢木の一族に、図書係・執事・給仕長に医師にいたるまで、常人とは異なる身体および精神的な問題を抱えている。事件の解決もその一言で納得させる強引なものなのだが、ポイントは人物の外観やナラティブではおよそ区別のつかない人物たち(17歳の旗太郎と70歳の田郷が法水の衒学についていくのだからね)において、個性とはこのような「体質」にもとめるしかないこと。何かの欠損か過剰が身体ないし精神にあることによって、人は他者と区別される。そういう見方が可能。差別の正当化と紙一重の危ない考え方。この観念をより強固にすすめると、算哲や八木沢博士(ないし正木と若林の両博士)のごとき実験にまでいたるのであるが。
・法水は、同種の事件が過去起きていないかを調べ、過去の事件との類似から犯人を象徴的に、類推的に推理する。そのときに類似事件は前世紀、ときには中世まで遡って調べることになる。最初のダンネベルグ夫人毒殺で、死体が栄光に包まれる事例として中世の聖人の死を語ることになるのだから。有名なTVドラマのセリフをもじれば、「事件は現場で起きているんじゃない。古文書の中で起きるんだ!」。このような主客の転倒。通常、探偵は警察のルーティンな捜査における思い込みや見落としを指弾し、観察力やら証拠の編集能力やらの優越を示すものだが、ここではそのような「客観的」「合理的」な思考をすべて退ける。かわりに現れるのは象徴思考や呪術的思考。陰陽家や風水師のような考え方や類推のしかただ。
 これをミステリーという形式のひっくり返しとみてもよいし、ゴシック・ロマンスや宗教怪異譚などの古い物語への先祖返りとみてもよい。ともあれ、ミステリにあるしかけ、まずいったん「世界」が構築されそれが理性で解体され世界の見方が変わるというカタルシスはここにはない。「真犯人」が探偵によって暴露されたからといって、「黒死館」の不条理とか無意味とか非合理はそのまま残され、世界があらたに解釈しなおされたわけではない。「黒死館」は最初と同じく、理性や合理を拒否したまま、そこに建っている。読者は、数日間に起きた立て続けの事件が終了し、新たな殺人が起きないことを知るが、それだけ。生き延びた者たちもあいかわらずケルトルネサンス様式の洋館に住み続け、算哲の遺志に従い続けるだろう。
 最初に構築された不可解で異常な世界そのものを歩くこと、不可解な論理で展開される反世界をそのまま受け入れ、そこを楽しむこと。これが「黒死館殺人事件」の読者にもとめられる。なんとも異様で、実際に暮らすにはどうにも不便であるところではあるが、この読者の現実世界のつまらなさ・みすぼらしさに飽きたものにとってはなんとも魅力のある場所。
(とまあ、高尚なふうを装ってみたけど、アニメ「天使のたまご」「新世紀エヴァンゲリオン」みたいな、故意に一部の情報を隠すことで、読者に解読を強いるような作品と思えばいいのだ。かわりに提示される情報があまりに異質なので圧倒されてしまうのだが。)
 これが「新青年」に発表されたとき、「探偵小説」のくくりにはいっていたとすると、本邦の「探偵小説」が内包するものはとてつもなく広かった。その広さが「黒死館殺人事件」「ドグラ・マグラ」という奇怪で豊饒な物語を生みだした。と思うと、当時の読者と編集者の度量の広さもまたすさまじい。1930年代にあの文体(翻訳調で、ルビを多用)と過剰な知識は、スタイリッシュで謎めかしくて魅了されるものだったにちがいない(創元推理文庫の「日本探偵小説全集」で他の作家の文章と比べられたい)。

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