odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

大石真「チョコレート戦争」(講談社文庫)

 小学生の時に「教室205号」を読んで以来の著者との再会。著者が職業作家になるきっかけの作品で、1965年に初出。

チョコレート戦争 ・・・ 地方都市に金泉堂という洋菓子店がある。その洋菓子は子供の憧れで、大人が子どもに言うことを聞かせるための道具。さて、病気の妹にエクレアをプレゼントしたい光一少年は金が足りなかったので、ショーウィンドーでケーキを眺めていた。突然、ガラス窓が割れる。支配人は教師を呼びつけて子供らを叱ったが、子供らは自分のせいではないので決して謝らない。はらいせに、金泉堂のショーウィンドウにある巨大なケーキを盗み出すことを計画した。その計画はうっかりな子供の軽口で金泉堂の知るところになる。両者の駆け引きが始まった。
 頭の良い子供が大人の足元をすくうという痛快な冒険になるところが、すこしずつずれていく。金泉堂の社長は子供を強くしかったが、決して悪い人物ではない。貧乏で苦労し、仕事に誇りをもち、東京よりも地方を選ぶという立身出世を体現した当時の期待される人間像にふさわしい人物。ただ、彼は自分の子供時代を忘れているだけなのだ。一方で、ケーキ強奪を考えている子供らも正義を体現しているわけではない。冤罪で叱られたのは同情するし彼らの立場は分かるが、では暴力による報復は正当化されるのか。悪い大人に罰を与える権利を被害者はもっているのか、というわけだ。なので、この「戦争」、勝者が生まれない。ケーキの強奪をとんちで切り返したが、こんどはマスコミによる風評で商品が売れなくなる。資本主義では、商品が市場で評価されないのは失敗になるのだ。というわけで、子供と大人の和解が生まれる。ここらの解決の仕方は、おとぎ話だな。
 あと重要なのは2点あって、この「戦争」はおもわぬ影響を大人たちに及ぼす。子供らの新聞記事で洋菓子のボイコットが行われたわけだが、それは大人が子どもに言うことを聞かせるために使ってきた「○○したら金泉堂のお菓子をあげる」が通用しなくなる。なにかの行動を変えるために報償を出すのが通用しなくなった。この子供の変化に大人(親)は対応できたのか、また子供は親の命令や指示に従う別の倫理を獲得したのだろうか。さらに、マスコミによる報道は過失を犯した者の正義を喚起した。彼らはそのままバッくれることも可能だったが、そうしないで自分の「罪」を公開した。そのような行動の変化をもたらしたのである。
 1965年の作。この時代背景は、俺はすごくよくわかる。なんといっても自分の子供時代を描写しているのだから。


見えなくなったクロ ・・・ 飼い犬がいなくなった翌日、自分と同じ顔の犬山太郎が転校してきた。彼はやることなすこと、全部自分が思っていることを先回りして、しかももっとうまくやってしまう。おかげで自分の人気と評判は下がる一方。

星へのやくそく ・・・ 白い服を着た少女が宇宙人と話ができるという。調子をあわせているうちに、宇宙人と一緒に旅に出るから明日夜会うと約束した。しかし、約束をすっぽかしてしまった。

パパという虫 ・・・ もらってきた果実をパパが食べたら背が縮んできた。家を売ることになり、ママが働くようになる。ぐうたらなママはいきいきとし、僕と妹は家事を手伝うようになった。いい学校、いい会社に行くことは幸福なのだろうか、と僕は問い返す。


 著者以前の児童文学というと、小川未明坪田譲治か新見南吉か宮沢賢治かだった(それくらいしか知らない)。この著者になると児童文学が一変した。いくつかを箇条書きにすると、
・自然賛美と農本主義ユートピアの廃棄。自然との一体化とか、自然と合一する生活とか農業への献身とか、あるいは自然物や野生動物の擬人化などときれいさっぱり手を切る。
通俗的な教訓や道徳を提示しない。子供は親の言うことを聞けとか、兄弟の面倒を見ろとか、立派な大人になれとか、他人に親切にしろとか、そういう教訓を話にいれない。そういうのは子供はおのずとわかることで、児童文学で強調するものではない。
・代わりにあらわれるのは、同時代と同世代のリアルな描写。1960年代には都市への人口集中が進み、核家族化がはじまり、地方に都市文化が定着する。多くの子供らはそのような環境に住んでいる。子供らの読む児童文学は、彼らのリアルな生活を書くべき(なので、「教室205号」では主人公格の一人が交通事故死する。それは年間の交通事故死者が3万人を超えていた時代だからこその選択)。
・子供らに問題を提示する。そして行動のあり方やモラル、エシックスを考えさせる。「チョコレート戦争」に典型だけど、ケーキを盗もうという子供らの行動の評価は真っ二つにわれるだろう。動機や意図を評価する立場と、盗みというパフォーマンスを断罪する立場だ。この小説だと、どちらの立場にもたっていない。それを考えるのは、子供らの側。読んだ後に、読者間で議論が湧き起るのを期待する。そういう小説。
・そのうえで、ストリーテリングへの注力。先がどうなるかわからない物語の進み方。何を決定するのかわからない登場人物。最初のほうのほのめかしがあとで話を膨らませる伏線とその回収。そういう面白い物語を語る。
 新しい児童文学をつくるという意欲にあふれた傑作(短編は落ちる)。あいにく著者のほとんどの作品は品切れ・絶版の様子。なるほど、1960−70年代の風景は、すっかり変わってしまったものな。嘆きたい気持ちはあるけど、愚痴はやめておこう。ともあれこの児童文学を知らないですますのはもったいない。