odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

斎藤惇夫「冒険者たち」(講談社文庫)

 イエネズミを追い出し理想の住居をドブネズミのガンバは手に入れていた。安楽で平安な日々。ただ、心は鬱々としていたがどうしてよいかはわからなかった。隣人のマンプクが港町でネズミの饗宴があると誘われ、不承不承出立することにした。ガンバ本人は帰宅するつもりであったが、それはついにかなわなかった。ネズミの饗宴には船ネズミ、港ネズミなど旅なれたものがいてガンバは居心地が悪い。嵐のその夜、夢見ヶ島から傷ついた忠太が饗宴の場に紛れ込み、彼らに助力を依頼する。島にイタチのノロイ一味が来て、島のネズミが全滅してしまいそうだ。ガクシャやヨイショなど経験豊富でリーダーシップを持つネズミたちは忠太の嘆願に応えない。ガンバはそれにいらついて、なぜ助けないのかと大声を出し、彼一人が忠太とともに島に行くと約束する。彼が島に帰る船の中で見出したのは、ガクシャ、ヨイショのほかに、マンプク、脚力自慢のイダテン、穴掘り自慢のアナホリ、板なら何でも穴を開けるカリック、詩を歌うシジン、声自慢のバスとテノール、踊りはまかせとけバレット、上方に飛ぶなら一番ジャンプ、サイコロを持ち歩くイカサマ、どこか間の抜けたボーボー、そして素性不明のオイボレ。彼ら14匹、二人(ガンバと忠太)を交えて16匹が島に戻り、イタチと戦うことを決意する。

 ガンバがなぜ冒険に出たのかは自身によってもわからない。義を見てなさざるは勇なきなりの侍の意地ではなさそうだし、たんに虚勢を張ったことを翻せなかっただけでもなさそうだ。冒険という幻想が彼を進ませたのか。彼の心情の代弁者でありそうなボーボーは単に海をみたい、大きな広い世界をみたいという欲求だけを口にする。たぶん仕事とかミッションとかそういうものを身にまとい、最も経験がないのにいいだしっぺということだけでリーダーになったガンバが意識できないことをボーボーは語るのだろう。
 イカサマはサイコロを振って旅の行く末をうらなう。不吉なことに3人あるいはそれ以上の死者がでることを示した。イカサマは再度サイコロを振ろうとするがガンバは止める。この先、だれもこのサイコロ占いを思い出さないが、読者は占い通りに死者が出ることを予想するだろう。
 さて、島で出会うのは最初に、オオミズナギドリのグループ。彼らは妻と卵をイタチに襲われて復讐に燃えていた。ガンバは彼らとの協力関係を結ぶことに成功する。山(忠太の家族が隠れているところ)に向かう途中の高倉で、島のネズミの生き残りと出会う。高倉にこもることに成功したネズミたちは当面の安全を重視して、イタチと戦う決意を示すガンバたちを閉じ込めようとする。ここは前作「グリックの冒険」の動物園と同じ。冒険や勇気を押しこめ、堕落した日常のメタファーか。ガンバたちはそこを抜け出し、忠太の家族と再会。海辺の荒れた岩影に当面のとりでを作ることにする。このあたりで、島のネズミとの反目と友情とまあいろいろな交換が描かれる。共同体の中に住むものと間にいるものたちのモラルと倫理の葛藤ということかな。ガンバは個人的に島のネズミとの友好を獲得するが、それがグループ全体のものになるには、オイボレ実は以前島を抜けたトキの自己犠牲が必要になる。常にみっともなく、また逃げたという負い目があるトキが命を差し出したときに、グループ間の反目は解消されるのだ。えーと、このあたりのストーリーは黒澤明七人の侍」に極似している。どこが一緒でどこに差異があるか、そこを逐一検証するのも面白いだろう。自分が関心したのはリーダーシップのとり方。映画だと年長者で経験豊富な侍だったが、ここではいいだしっぺがリーダーになるのだ。そして、リーダーがリーダーらしくないとき、ガクシャもヨイショもすぐさまリーダーを更迭するそぶりをみせること。その結果、最も若く経験不足なものがリーダーになるのだった。ここらへんに着目しておこう。
 イタチとの戦いは5夜にわたる。初日はノロイの停戦のことば。翌日はイタチの誘惑の歌。3夜目はイタチの誘惑の踊り。4夜目は食物の提供(ネズミはうかつにほらなあを抜けられないので、食料不足になっていた)。これらの誘惑や詐欺などは、異能の仲間の力で退けられる。ここら辺はまあ水滸伝の昔からある作劇技法だ。ただ、彼ら異能の戦士も、やはり自分はなぜ命をかけて見知らぬ仲間を助けるのかという冒険の意味、戦いの意味を考えるものであるということを記憶しておこう。とくにガクシャとヨイショにはかつてノロイとの戦いに敗れた経験があり、それがコンプレックスになっていることに注意。
 イタチの作戦は失敗し、ノロイはリーダーを外される(ここも面白いところ。「七人の侍」だと、野武士の頭領はさいごまで権力を持っていた)。ガクシャは島の伝統歌にヒントを得て、島の近くにある小島に移動することを提案する。ガンバはオオミズナギドリの協力を要請するために、一人(イダテンが勝手についてくる)でグループを抜ける。残ったネズミが海峡の200メートルを泳ぐ途中に、イタチに追いつかれる。ガクシャ以下ガンバの仲間は進んで殿(しんがり)をうけもつ。イタチが刻々と迫る中、一列に並ぶ彼ら13匹の姿が悲壮でかつ荘厳な美しさを持つこと(池上遼一「男組」の地下水道における撤退と殿軍の防御戦をおもいだす)。ノロイとの最終決戦、それは夏の満月の昼、海流が一時停止する海の上だった
 こうして物語は終わる。ガンバの当初の目的は達成され、しかし途中で芽生えたロマンスは成就しない。こういう過不足のある経験ののち、ガンバは「家」とか「共同体」の中にいることができない自分を発見する。この先、彼は自己変革と冒険の旅にでることであろう。「グリックの冒険」におけるガンバは、「冒険者たち」における自分の冒険をすでに終えていた姿であった。
 たしか20代のときに読み、老年を目前にして読み直したとき、これは傑作であると再認識する。これから人生に乗り出す若い人にとっては優れた指南書にして励ましの書になることであろう。さて、老年の手前の自分としては、老年になったガンバの姿を空想せずに入られない。いまでも冒険をしているのか、それともあてどなく世界を巡り歩き家族も友人もなく一人になっているのか(「七人の侍」の勘兵衛だ)、所帯を持って家族に囲まれて住まっているのか、どこかで野たれ死んでしまったか。さあいずれかしら。彼の心の飢えはどのような状態でいるときに、癒えたのであろうか。
 蛇足だが、本書にしろ「グリックの冒険」にしろ、食の描写が多い。年中食べていないと、基礎代謝分のカロリーを確保するのが大変な小動物だからだが(これは牽強付会)、りんごやどんぐり、米粒などなどそこらにありふれたものがうまそうなんだ。そして彼らはよく寝る。夜になったら、雨が降ったら、疲れたら、すぐに寝てしまう。その後の起床後の気分の晴れやかなこと。こういう基本欲求をしっかり楽しむことを読みながら楽しもう。1972年作。