odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

舟崎克彦「野ウサギのラララ」(福音館書店「母の友」連載)

 KINDLEipadを購入したので、「母の友」をPDF化した。そして「母の友」連載版による「野ウサギのラララ」を作成した。これでいつでも初出を読めるようになった。あいにく連載第4回が欠けている。まずは、1970年代の母親向け雑誌の表紙をご覧ください。

 というわけで、久しぶりに再読。こちらには作者自身による挿絵がふんだんにのっている。連載は1年間。

 おおまかにわけると、以下の5つの物語で構成されている。
イントロ ・・・ ラララが名のない島に流れ着く。あとには詳細な島の地図が出てくるが、この島には名前がない。まあ、名前をもっているのは、とりあえず自分を「ラララ」と名付けた放浪者と修道尼くらい。ほかの住民は「アナグマ」「モグラ」「ネズミ」。それで十分にアイデンティティは確保される。名前をもつことのほうがこの「自然状態(@ルソー)」の島では異常事態。で、ラララは新聞記者になるが、それは他人を調べることで自分の同一性を発見するための仕事なのかしら。

春 ・・・ ハリネズミのハハハが麦わら帽子につけているリボンの失踪事件。あとを追って島を駆け回る。島の連中の紹介。

夏 ・・・ 毒ヘビ騒動。ツノガエルは、なぜ島に居ない毒ヘビを研究するかというと、いつか毒ヘビが上陸しないとも限らないから、だってさ。島に上がってきた毒ヘビと話し合って解決するために懸命にパントマイムするツノガエルがおかしい。でもって、毒ヘビはウナギの見間違え。ウナギは一年かけて島を一周する冒険をしてきた。この推理はラララとハハハの会話でもって語られるのだが、改訂版ではラララの内話。

秋 ・・・ 秋は別れの季節です、というセンチメンタルな感情をただよわせながら、島の連中が物思いにふけっていく。あるいは冬眠のためにたべまくる。あるいは暖かい土地を求めて移動を開始。ラララ一人は秋の訪れ、冬の到来に何の身体的な影響を受けないので、カイツブリの修道僧たち、サメザメの送別会を企画。修道僧にラララは自分は何者かと尋ねる。「だれもが神の子」という返事はラララを安心させるが不安にもする。要は<この私>が存在する特権的な根拠はないってことだ。サメザメは常に自分の境遇を嘆き悲しんでいるのだけど、いまの悲しみの原因が取り除かれたらまた別の嘆きと悲しみを見つけるだろう、とラララは考える。こんどは、存在の意味をめぐる問題だな。いま-ここにあることはそのまま不安を醸し、存在の不安からはどこにも逃げられないのだよね。

冬 ・・・ 島のみんなが眠っている。寝ていないのは冬眠できないラララと冬眠し損なったネズミ。いつも馬鹿丁寧な言葉使いのネズミとラララの共同生活がおかしい。ネズミはとても勤勉で、夏の間に一人では消化しきれない量の食べ物を保管していたんだ。ラララがいて、楽器を作り歌を作るという創作活動がないとネズミの生活は退屈きわまりなさそう。これは「アリとキリギリス」の話のひっくり返しだな。秋のサメザメとは逆の視点で存在の意味が問われているのかもね。冬の大きなイベントは修道院の屋根裏冒険。消防ポンプにぶらさがったカミサマをみつける。

春 ・・・ 春になってみんなが目をさまし、冬を逃れていた連中も返ってきた。そのとき落雷で山火事が起きる。炎のきらめきをみているうちに、ラララの記憶が回復。でも過去を発見してもラララはちっとも幸福になれなかった。それよりも、「僕は野うさぎのラララだ」と自己規定することが大切。それに対するハハハの返事が秀逸。「そんなこと知ってたよ」。自己承認と他者の共感があって、われわれは幸福になれる(のだろう)。

 ラララのイラスト(左)がぽっぺん先生(右)にそっくり。丸顔に大きなビックりしたような目。
 繰り返される問いは、自分とは誰か?自分はどうやって自分自身であるのか?他人と自分を区別するのは何か?ここらへん。そのように読んだのは、自分が中年以降の年齢にあるからで、過去の自分は何も起こらないが、喧嘩や衝突が起こらず、他者が介入して困惑することのない、島の平安とちいさなドラマを楽しんでいたのだろうなあ。学校や放課後には困惑や不安がいっぱいあったのでね。
 別エントリにも書いたように、「母の友」連載版は人物が行動的で、ドラマはアクションでもってすすめられ、複数のキャラクターの会話がとびかい、要するに動的な語り口だった。自分にはこちらのほうが好ましい。でも、作者は改訂版を出してしまったのだよな、「母の友」連載版が埋もれてしまったのはとても残念。