odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

山中恒「おれがあいつであいつがおれで」(旺文社文庫)

 もとは1979年に旺文社の雑誌に連載されていた。自分が読んだのは1982年の旺文社文庫版。いまでは角川文庫で出版されている。この小説はむしろ大林宣彦監督の映画「転校生」で知られているかな。

斉藤一夫は小学六年生。ある日クラスに斉藤一美という転校生がやってきた。なんと彼女は幼稚園で一緒だった、ちょっとやっかいな女の子。みんなの前で秘密をばらされたり、ちょっかい出されたりで弱った一夫は、ちょっと脅かしてやろうと「身代わり地蔵」の前で一美に体当たり。ところが二人ともでんぐりがえって気を失ってしまった。気がつくと、二人の体は完全に入れ替わっていた!!」

 まあ、学校での性教育というのがいわれだしたのは1960年代後半で、阿部進(カバゴン先生!!)などが主導者だったのかな。同時期に永井豪ハレンチ学園」「あばしり一家」などで少年漫画にヌードが出てくるのも問題になり、一方手塚治虫少年チャンピオンで「やけっぱちのマリア」などの性教育マンガを連載している。TVでは「時間ですよ」「プレイガール」などで午後9時代にヌードをみることもできたのだった。ドリフターズの番組で幼児の全裸やモデルのヌードを午後7-8時代に見ることもあった。そういう昔話をしているときりがないが、当時の少年たちはこういう状況を受け入れていたのだった。だいいち、それ以前の少年は大人衆の仲間入りをしたら赤線に連れて行ってもらったり、それ以前だと若集宿の男連が村娘に夜這いをかけていたのだったし、祭りの夜は歌垣になっていたのだし、性教育が教育の問題になるまえに性教育がなかったわけではない。教える人間が兄貴や先輩などの共同体仲間から公教育機関に移っただけの話。それがよいことかどうかはわからない。
 物語の始まりは、上のとおり。12歳の少年が12歳の少女と体と心が入れ替わり、困惑するというもの。この年齢になると、自由と束縛の意識がでてくるのかな。あわせて身体の変化を意識しないといけない。初歩的な「自分とは何か」「なぜここにいるのか」という質問を問うことになって、その答えを捜すという次第になる。答えを意識したり言語化するのはたいてい挫折していて、その代わりに見つけるのは「大人」たちに疎外されている自分たち、ということになるのかしら。ここでも体と心の入れ替わった二人の斉藤さんが見出すのは、変化した彼らに対し強圧的になり、共同体のモラルとかジェンダーを押し付ける親(妙に父親の影が薄く、母親が強いなあ)、兄弟、教師、同級生たち。すなわち子供とはいえ、こうあるべきというモデルがあって、そこから逸脱すると、激しい差別とかいじめの矛先がくるということ。たいていの人はこういうジェンダーとセックスの間に差異を感じないものだから(という論は現在のフェミニズムではどう扱われているのか)、これはコメディであり、少年少女たちの性の関心を埋める情報提供物になる。
 でも、ときとして、ジェンダーとセックスの同一性をもてない人もいる。二人の斉藤さんは半年ほどの経験ののち、超常現象によって元に戻ることができたわけだが、性別違和を持っている人にとっては同一性を持つ機会はなかなか訪れない。となると、フランクルが「夜と霧」で示したような期限無き囚人であるということになり、これはつらいだろう(という感想をこの悩みが無いものがいうのは不遜ですけど。この問題をきちんと考えたことはないので、いいかげんにいうと、たぶん個人の違和感の解消が問題解決になるのではなく、その人たちのいる集団やコミュニティが変わることが問題解決の道になるのだろうと思う)。
 さすがにこの年齢になると、ローティーンの生理と感情に同化することはむずかしく、こっぱずしかった。なので、そういう文章はすっ飛ばしてしまいました。作者にはごめんなさい。あと、この時代には少年少女向けの小説では性器や生理のことまで書くようになるのね。たぶん二人の斉藤さんは入れ替わったあとに、自分の性器をまじまじとみつめる機会があったと思うけど、さすがにそこまではかかれない(まあ、男になった女性の斉藤さんがちんぽこが勃起するのに困惑し、かつ顔を赤らめるということがかかれたくらい。その逆は女になった斉藤くんがおっぱいの存在の不可思議さを考察すること)。

  
 映画版は