odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

開高健「ベトナム戦記」(朝日文庫) 1964-65年に国家の後ろ盾なくベトナムを歩いた作家のルポ。戦場で死にそうな目に会う。

 作家は1964年末から1965年初頭の100日間をベトナムに過ごした。北の共産党が反抗を組織し、南の解放戦線が独立戦争を開始した。アメリカの支援を受けた政府があったが誰も信用していなくて、南ベトナム軍の将校は定期的にクーデターを起こしていた。金のあるベトナム人は亡命し、貧乏なベトナム人はそこに残った。農村の若い男は逃亡して開放戦線に参加するか、政府軍に徴用された。国内のあらゆる場所で戦闘があり、首都ですらテロがあってホテルやレストランや軍用施設が破壊された。そういう場所に作家は行った。

 戦争の現場に行く作家は別に珍しくもないが、彼がユニークなのは新聞社の依頼を受けてという後ろ盾はあるにしても、ほぼ好き勝手に動いたことにある。これは、同じくベトナム戦争にいった石原慎太郎とは少し異なるやり方。だからこのときの作家は、ソ連に招かれたジッドやショーよりも、戦争にくっついていったロバート・キャパに近い。
 そして作家は、社会の上から下までのさまざまな人々と会い、都会から田舎から山岳地帯から軍基地から戦場までを行き来する。恐怖と笑い、食と糞とsex、プライドと涙、高揚と自失など自分に起きたことを隠さない(脚色はあるだろうが)。たとえば、
反戦厭戦活動を組織、指導することになった仏教の僧侶と会う。仏教徒のデモや抗議の焼身自殺を目撃する。
・いきつけのバーやレストランで、従業員のベトナム人と話をする。
・通訳や情報係として雇ったベトナム人といっしょに、サイゴンの路地裏をうろうろし、ときに娼婦と話をする。
・ごく普通の市民の食べる屋台の食べ物を買い、そこらの道に座ってかっこむ(よく腹をこわさなかったものだ)。
・クーデターやテロの現場に行って、惨禍を見る。
・ベトコンのテロリストが処刑されるという噂を聞いて、一日待ち、その翌日朝4時に起きて、早朝の処刑を目撃し、写真を取る。若いテロリストの処刑の様子は、マルロー「人間の条件」の描写にそっくり。
・山岳地帯にいき、山岳民族の話を収集する。
アメリカ軍の情報担当部署にいき、戦争の「最前線」に出たいと申し出る。前線にいるアメリカの兵士とベトナムの兵士と話をする。
サイゴンから100kmも離れたDゾーンの危険地帯に行き、アメリカ軍といっしょに解放村に行く(宣伝活動についていったのだ)。
・あげくのはてには、旧正月の反撃が予想される中、ベトコン数百名の集まる地帯を平定するための計画に同行し、200人が17人まで減る「小さな」衝突に遭遇する。このとき、彼の周りで多数のアメリカ兵とベトナム兵が死に、自分自身も死を覚悟した。このときに撮影した一枚の写真が掲載されていて、このあと作家の書くエッセイ、随筆では毎年2月14日にこの写真を見ながら痛飲することが書かれる。
 戦争の全体像をひとりの人間が体験することなどできず、死者のでることに痛切な思いを持ちながらあまりに多数の死者の前では鈍感になり、金持ちと貧乏人の格差の大きさに怒りすら覚えられずにいるとなると、なにを書くのか。もはや事実をそのまま書くしかなく、作家の語彙の豊富さは事態をくわしく我々に伝える。いろいろな作者の感想が書かれるものの、その内容よりも事実のほうが読者にとっては切実で、深く物思いにふけるきっかけになる。
 1965年という早い時期において、作家はこの戦争は南ベトナムの負け、アメリカも撤退せざるを得ないと洞察する。というのも、アメリカがいろいろベトナムに便宜を図ろうとも、軍を前面に出し、南ベトナム政府の腐敗に手を貸しているとなると、人々は「外国嫌い」にならざるを得ないから。これはイデオロギーに関係なく、たんにいてほしくない、ちょっかいを出して欲しくないという「嫌い」の感情になる。その点は、この国が1930〜45年の戦争で中国や周辺諸国に行ってきたことを繰り替えしている。この国は、民主主義や民族自決主義とかの大義名分で占領地を統治しなくて、この国のシステムを押し付けたので、より多くの憎悪を買うことになったわけだが、基地周辺に無人地域を作るとか、解放村を作り宣伝に励むとか、枯葉剤の代わりに火で荒地を作るとか、ほぼこの時のアメリカとおなじことをしてきた。結果は、徹底的な敗北。ということは、この種の軍事占領、傀儡政権を使った間接統治は失敗するということを身をもって説得できる立場であるのではないか。この国の戦争体験による教訓はこんなものではないか、と妄想する。
南ベトナムの人々が怠惰で、感情にとぼしく、あらゆることに不熱心で、ということが当時の記事にあったり、著者の感想として書かれている。だが2000年以後、外国資本を受け入れ経済発展しているかの国の人々は礼儀正しく、勤勉で、器用だという評価になっている。たかだか数十年で人々は変わったのか? たぶん変わったのは人々の気質とか精神ではなく、外部の状況にある。なるほど外国軍が駐留し、政治参加ができず、公共サービスは不充分、特別警察の監視があり、無差別かつ理不尽に徴用され、突然の戦闘行為で資産が破壊されたり傷ついたり殺されたりされかねない状況で、本来の気質とか精神など発揮するはずもない。まあ、戦時下の彼らの行為や表情は、無自覚で受動的な反戦厭戦活動で、民間防衛であったのかもしれない、と妄想する。さかさにいうと、他国の軍事占領はこのような受動的な反発も受けることになり、長期的には投資にみあう利益を生まない。われわれが他国に占領される事態には、このような消極的な抵抗で対抗できる可能性がある。この国ではそういう歴史がないので、今後可能かどうかはわからない。)
 作家によるベトナム戦争の文章では、これがもっともみずみずしく、痛切なので、ぜひ読まれんことを。ベトナム戦争は終わったけど、別の戦争があるからね。最近の戦争は情報管理が厳しいので、このようなルポやドキュメンタリーはめったに書かれない。

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開高健「歩く影たち」(新潮文庫) ベトナム戦争体験の小説化。ノンフィクションやエッセイの切実さはここにはない。 - odd_hatchの読書ノート
開高健「渚から来るもの」(角川文庫) 東南アジアの架空の国アゴネシアを舞台にした「ベトナム戦記」の小説版。 - odd_hatchの読書ノート



<参考エントリー>
2012/09/13 平岡正明「日本人は中国でなにをしたか」(潮文庫)
2011/12/04 グレアム・グリーン「おとなしいアメリカ人」(早川書房)
2012/08/23 岡村昭彦「南ヴェトナム戦争従軍記」(岩波新書)
2014/07/14 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-1
2014/07/15 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-2
2014/07/16 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-3
2014/07/17 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-4
2014/07/10 石川文洋「戦場カメラマン」(朝日文庫)-1
2014/07/11 石川文洋「戦場カメラマン」(朝日文庫)-2
2014/07/21 小田実「「ベトナム以後」を歩く」(岩波新書)