odd_hatchの読書ノート

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高野和明「ジェノサイド 下」(角川文庫)

2014/07/23 高野和明「ジェノサイド 上」(角川文庫)


 全体は3部構成。第1部「ハイズマンレポート」はネメシス計画の準備とターゲットの補足まで。ここでは、小松左京復活の日」、笠井潔「オイディプス症候群」などの人工的な病毒ウィルスをめぐるパニック小説を思い出した。古い小説(1970年代)ではこの国のバイオ技術はまだまだ遅れていたと思われていたのか、日本人の登場人物は創薬やウィルス学の一線にはいない。それから40年すると、日本人のバイオ技術者が創薬を担当するまでに研究者の層と質が上がった。これはまあ喜ぶべきことなのだろう(まあ、2010年前後では博士課程に進学してもその先の人生設計がたたないとか、生涯賃金が文系に及ばないとか世知辛い状態にあるのだが)。
 第1部は掛け値なしの傑作。詰め込まれたうんちく(軍事、防諜、薬学、進化論、国際政治情勢などなど)は正確このうえない。分子生物学や医学をエンターテイメント小説に持ち込むとき、科学的知識の記述や疑似科学の設定で誤りがよく見つかるのだが、この小説ではそのような不満はあまりなかった(まあ、ウィルス進化論というトンデモを持ち込んでいるのは笑ったが、すぐに否定していたのがよい)。
 ただ、そこでもうひとつ物語に没入できないのは、彼らが訓練されたプロであり、タイムリミットや生死のかかった危機は、己が身体に蓄積したプロフェッショナルな技術で乗り越え可能であるということだ。傭兵たちは襲撃やサバイバルの技術を持ち、ほとんどの危難は応用問題になっている。大学院生も父の残した実験施設と友人たちの知識を借りて、困難な薬物合成の目鼻を付ける。まあ、素人たちではこのような困難なミッションは告げられた時点でゲームオーバーになるから、仕方ないか。第1部の終わりで、4人の傭兵が窮地に陥るまでは、大学院生が絶望に陥るまでは、手に汗握る展開。
 第2部「ネメシス」と第3部「出エジプト」では、第1部の図式が反転する。傭兵のグループはネメシス計画の捨て駒であり、真実の側はターゲットであるはずのピグミーの子供にあることがわかる。すなわち、頭部が異様に大きく、幼児の顔付をした3歳児が素数を発見するアルゴリズムを自力で開発し、世界中のネットワークに痕跡も残さずにハッキングしてしまう。その知力の進み方からすると、新人類はこの子供でしかありえない。彼を保護する人類学者は突然死した日本のウィルス学者と窮地であり、その息子が今不治の病の特効薬をつくろうとしている。その薬を何より必要としているのは傭兵のリーダーの息子なのだ。ここで糸がつながり、彼らは子供をまもって窮地から脱出することになる。すなわち、人類学者や傭兵にとって子供は世界の危機を救う聖杯となる。そこで子供をつれて脱出することは、自己が生き永らえるのみならず、世界を救う騎士の役目を果たすことになる。同様なのは、日本人の大学院生もで、彼は父のやり残した不治の病の特効薬をつくることは世界(の中の難病患者10万人)を救うことでもある。このような使命を自己に課したとき、直面する危機は自己を修養し、高みに上るための試練に他ならない。そこには父と子の葛藤と、父の乗り越えもあり、物語は全体として神話的な装いをまとうことになる。
 新人類の能力や知力は人間には推し量ることができない。この小説では数学の難問を解いたり、新たな言語を開発して新人類同士でコミュニケーションをとったり、暗号化されたネットワークをハッキングしたり。その能力や知力の高さゆえに、人類は新人類を恐れる。新人類への人類の敵意はステープルドン「オッド・ジョン」と同様。ただ、ステープルドンでは新人類は自活が可能なコミューンをつくれるまでに成長していたが、この小説の新人類は自力では生活できない子供であるところ。他人は救済できるが自分を救済できないパルジファルみたいな無垢で無力な存在である。自分をたすけるためには、他人に協力し、利他的な行動をとらざるを得ない。そこで人間への共感が生まれたらしいのが示唆される。まあ、人間が家畜やペットを愛好するのと同じような憐憫であるのかもしれないが。あるいは十数年後に「オッド・ジョン」みたいに親や人類から離れて自活することになるのかもしれないが。そのとき、読後の読者が感じる「弱者としての人類」への新人類への共感・憐憫があるかはわからない。そのとき、グループとしての存在感を増した新人類に人類が敵対心や排除の気持ちを持ち続け、新たな殺戮計画が生まれ、そのときはもっと手厳しい報復を受けるかもしれないが。まあ、おれは「人類は新人類に滅ぼされても構わない、でも自分が死んでからにしてね」と願望充足的・自己満足的な情けない感情をもったのだった。
 第2部に入り、地と図が反転すると、傭兵と創薬担当の物語は次第にきしんでくる。傭兵たちは、コンゴへの侵入、そこからの脱出、南アフリカでの民間機ハイジャック、バミューダ海域上空でハイテク迎撃機にロックオンされたジェット機、と危機が連続し、規模が巨大になるというインフレを起こす。刻々と訪れる危機においては、神のごとき宣託(オラクル)が都度都度舞い降りてくる。もはや傭兵たちは状況と全体像を把握することができなくなり(あるいは放棄するようになり)、オラクルの命令をそのまま実行するだけの操り人形になってしまた。傭兵たちは自立性を失い、急速に魅力が薄くなってしまったからねえ。
 その一方で、創薬担当の大学院生たちは、大研究所で数百人のチームがなすべき課題をぼろアパートの一室の貧弱な設備と少ない人数で達成してしまう。バイオ研究をかつて聞きかじった自分にはありえね〜なんだ。その秘密が漏れて官憲が追いかけるところでは、神のごとき宣託(オラクル)の謂うがままに行動するうちに一流諜報部員なみの能力を持つまでになってしまった。あるいは日本の公安は、アクションコメディ映画の間抜けなデカ並みに無能であるのか。
 チェイス&アドヴェンチャーの物語は、追われる主人公たちは戦力と情報に劣っていて、そこを知略でかわすところに妙味がある。でもここでは、味方と敵のパワーバランスがうまくいっていないんだよね。主人公たちのもともとの能力と対処するべき危機が著しくバランスを欠いてしまった。ここが少しばかり気になった(リアルであることを売りにする冒険小説で「幻魔大戦」や「サイボーグ009」をやるわけにはいかないし)。世間は傑作というが、さあどうかしら。自分は冒険小説はそれほど好まないし、ほかの冒険小説でも同じような不満を持つことがあるから、自分と冒険小説は相性が悪いのだろう。