odd_hatchの読書ノート

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石川淳「荒魂」(新潮日本文学33)

 まず「佐太」が物語に投げ込まれる。「うまれたときはすなわち殺されたときであった」とされる佐太は、長じても自我とか主体とかには無縁。喋る言葉も少しはもっていたが、両親と村を捨て、町の路地に行き着いた時には、喋る言葉も失う。それは彼が社会と絶縁したことを意味しなく、力がそのまま光となって人々を幻惑・魅了する。ともあれ力があふれるばかりであって、湧き出る力に魅せられる老若男女は彼の後を追うし、力に目くらまされるものは彼を殺そうとして果たせない。こういう、それこそ類型はスサノオノミコトくらいしか思い当たらない途方もない怪物で幼児が町に来るのである。

 その力はさっそく人々に影響し、彼らはそれまで沈殿していたのがウソのように生き生きと行動を開始する。まずは、井筒文彦が動く。この男は潮財閥の入り婿として井筒重工を束ねているが、潮弘方会長の前では赤子も同然、頭を押さえられているのを「くらぶP」なるSMクラブ(この時代に?!)で発散するしかない。しかし、それまで椅子に腰変えてばかりの潮弘方が保守新党を結党し、政界に躍り出て財閥とあわせて世界を牛耳るとなるとおもしろくない。政界に出るならでよ、俺は財閥をもらうとばかりに、暗躍を開始する。その手始めは、佐太ともつながるのあるSMクラブの「奴隷」平六=モリ=毛利に潮弘方の暗殺を命じる。
 潮弘方は、料亭「柏」をつくり、隠れ家としている。ここには政界財界の資料があふれ、彼の脳髄が具現したものといえるか。十分な勝算を得たと確認したとき、彼は政界にうってでる。「柏」のよいところは、性の享楽なくしては安眠できない潮の性癖を満たすに十分な女をここに囲うことができたからで、照子(27-8歳)の脂ののった年増と三穂(21歳)がかいがいしく弘方に使え、この二人は反目の争い。いずれは井筒文彦の後釜か弘方の第一秘書あたりを狙うとみえる。「柏」のだだっぴろい園庭を改築し、巨大な滝を作る工事の人夫に佐太がいて、その巨大な黒い影に照子が目をつけたのは慧眼か。彼は「柏」の園庭に出入り自由となり、出入りする者のうち、目の鋭いものだけが姿を見ることができる。
 さらに、落ちぶれた資産家の孫である阿久根秋作もいよいよ行き詰まったと見えて、祖父の形見の骨董を売り出すと、金のはいったさきから、平六=モリ=毛利といさかいを起こすわ、一見さんお断りの「柏」で傍若無人な振る舞いで逆に照子の感興を得るわ。いったい崩れインテリの秋作ではあるが、どこからくそ度胸がわいてくるのか、照子に文彦らとどうどうと渡り合える。なにしろ、産みの父母は幼少の時に失踪、祖父に育てられたとはいえ放任されあげくの果ての貧乏暮らし。こういう境遇でへこたれるものは作家の小説にはいなくて、「普賢」「マルスの歌」のインテリのごとき傲岸不遜な生きざまを見せる。それを実現できるのは祖父由来の仕込杖と巨大な宝石のせいか。
 このような丁々発止のやり取りは、潮弘方の保守新党の結党からクーデター騒ぎに収れんしていく。戒厳令さながらの警官隊の治安維持と潮の私兵である親衛隊のそれぞれの暴力の対決は町を圧倒し、政権担当者も潮の力に傍観を決め込むしかない。それにあわせて照子・三穂・文彦・「おくさん」・平六=モリ=毛利も暗躍し、いずれもが自分の利益を極大化するような行動を選択する。しかしその行動は挫折・失敗し資産を失う。しかも彼らの関係した幾人かは命を落とす。この転落から免れたのは、秋作とその外科医の友人・矢倉くらいか。彼らは端から栄達出世を望んでいないとなると、それも小説世界では当然となる。行動や意思を持たないのであれば、人間は変わらないというのがこの小説世界の規範。
 となると、佐太の存在が不明になる。この男は欲望や意思をもたない。喋らないせいもあって内面などないに等しい。しかしその存在感は他を圧倒する。それはこの男のもつ力そのものであり、象徴としての陽根か。巨大な陽根の持ち主が、滝をつくり、その完成披露で破壊するなぞ、世界の創世神話と同じ趣き。佐太の力は小説世界に押しとどめることができなくなり、練り物・囃子・踊り子を携えて、小説世界から外に出ていく。秋作の見守る窓からもみえなくなったとき、佐太の力そのものは読者に読書の爽快感を残すことになるだろう。

 1964年作。おりからの無国籍アクション映画や政情不安定な中でのデモ風景などを反映したのか、なかなかに暴力的な世界である。現実に吹き荒れる力もまた、小説の力に匹敵するものであった。だから、ここには歴史や神話の登場する余地はない。現実世界の混沌さが失せていき、管理の力がおびただしいとき、小説世界に力を持ち込むには歴史や神話をとりこまなくてなならなくなり、「狂風記」「六道遊行」のごときに作家が力技で<運動>を封じ込めなければならなくなる。その少し前のこの小説は、現実社会が小説世界に拮抗する最後の時ではなかったかと思うと、この小説は幸運であり、豊饒である。