odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

石川淳「新釈古事記」(ちくま文庫)

 関東生まれ関東育ちが、北九州地方に行くと、神社がたくさんあることに気付く。太宰府天満宮にいくと、社の後ろに小さな社殿(という呼び名で正しいのかしら)があって、そこに「大国主命」「天照大御神」などがあたりまえなように書いてあって、感動した。なるほどこの国の古い神話の舞台では、神話の記憶もこのように保持されるのか。それは天満宮だけのことではなく、志賀島志賀海神社でも、天神の小さな神社でもそう。福岡市内で町内にはかならずひとつはあるのじゃないかな。(まあ、同時に福岡市内にはほかの宗教施設もたくさんあるけどね)
 というわけ(どういうわけ?)で、神話の集大成の「古事記」を読む。江戸時代の文章ですら読むのが困難なのに、万葉仮名の文章を注釈を頼りに読むことはかなわない。そこで、石川淳の現代語訳で読む。昭和30年代の企画と思うが、筑摩書房はこの国の古典を作家に現代語訳して出版した。福永武彦の今昔物語などがあったかな。

 ものの本によると、古事記は中世まで門外不出の扱いになっていて、日本書紀が勉強用だったのに比べると、粗末な扱いを受けていた。江戸時代に公開されてからも偽書であるという説もあったそうな。そのあたりの書誌の記事はこの本にはない。
 そうすると、古事記のファンタジーに酔うことになる。最初の神々の誕生からしておおらかな性の讃歌。その後も各地を放浪する神々は、美しい乙女に惚れて、そのまま即座に交合する。その素早さ、ときには女神から男神を誘うこともあるとなると、平安時代の宮廷の恋愛作法は迂遠だなあと見当違いの感想まで持ってしまう。恋愛と子作りの話の合間に、ほかの国々の平定と戦いが描かれる。たいていは宴を催しての暗殺ばかりというのは、狭い国土のせいかな。おとりやニセの退却を使って逆襲というような戦術はなかった。いろいろ面白い話があるも、古い神々の名前になれていないので、次第に目が落ちてくる。下巻(しもつまき)はところどころ飛ばしながらになりました。歌謡も収録されているので、「君が代」を探したけどなかった。なるほど「君が代」は新しい歌なのだね。
 あと、石川淳の文章がおもしろいこと。古文をそのまま現代語に逐語訳するのではなく、端折りと追加がある。その編集と作家の思想が楽しい。1960年頃の仕事だけど、次のようなのはいかが。

「天はすでにさだまった。国という観念もやがてゆるがいものとなって、クニノトコタチの神が名のりをあげた。そして、この神がかくれたあとに、つづいてあらわれる神神には事をかかない。地のかたち、草のすがた。(P12)」

 後年の「六道遊行」「天門」の文体を彷彿させる。

「目と目が合い、こころとこころとが通って、なにをためらうか、女のほうからすすんで、おもいの色濃く、ただちに事に出て、契をかわした。神神の色事、末の世の人間のもたもたには似ない。(P45)」

「大伴といい久米といえば、後世にかくれなき武門のこととて、たとえ五伴緒にははずれても、ここで先祖にぜひ一役買わせておきたかったものか。(P72)」

 ここらはたぶん原文にないもので、夷斎先生の追加だと思う。この追加で、読者はくすりと笑い、現実の似たようなことを思い出して背筋を寒くする。そういう力を持たせるのが、夷斎先生の文章の生命力。