odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

マヌエル・プイグ「蜘蛛女のキス」(集英社文庫)

 これまでの三作では軍事政権の様子は背景にあったが、ここでは前面に現れている。軍事政権は、反政府運動の指導者であるヴァレンティンを捕らえて、組織の情報を聞き出そうとしたが、彼は拷問に屈しない。そこで、同室人のモリーナ(未成年者の猥褻幇助罪で投獄中)を懐柔して、出所と引き換えにヴァレンティンから情報を盗み出せと命じる。独房の狭い部屋で、消灯後のわずかな時間にモリーナはさまざまな映画の筋を語る。うるさがっていたヴァレンティンも、食事に混ぜられた毒で下痢を起こし、体力を消耗したときに、モリーナの献身的な看護に次第に心を開けていく。同時に、ゲイへの偏見も消えていく。モリーナもそのときにはヴァレンティンに同情していて、警察の頼みをサボタージュするようになっている。焦った政府はモリーナを釈放することで、組織の情報を得ようとした。そして、出獄の前夜、ヴァレンティンはモリーナにあることを頼む。

 きわめて乱暴にストーリーを語るとこうなってしまい、たとえばユリウス・フチーク「絞首台からのレポート」(青木文庫)あたりの獄中記になってしまう。そうならないのは、投獄された獄舎の狭い一室という二人の登場人物の現在がほぼ描写されず、かわりに、モリーナの語る映画の筋という大状況だけが描かれること。語られる映画は「黒豹女」に、「甦るゾンビ女」や「愛の奇跡」、「大いなる愛」。ほかに複数の映画を組み合わせたナチのプロパガンダ映画もあるし、作者の想像した架空の映画も語られる。読者は、ヴァレンティンといっしょにモリーナの語りにのめりこむ。この稀有な語り部モリーナは、映画の見方も独特で、テーマとか技術には一切関心がなくて、シーンを細かく描写していく。その視線の先には、ふだん気づかないような衣装や小道具、ちょっとしたしぐさがあり、それらへののめりこむような細密な描写が加わる。ああ、こういう映画の語り部として、この国は淀川長治さんをもっていたなと彼の口調を思い出す。こういう映画のこまごました見方というのがとても新鮮。
 そのうえで、上記の映画がメロドラマであって、B級作品をとりあげたときでさえ、そこには男と女のロマンスがある。たぶん、取り上げる映画は、ヴァレンティンとモリーナの関係を象徴しているのだろう。黒豹やゾンビのような成立しない愛の対象であった女たちが、しだいに男の同情をひいて男の運命をきめていく決定的な存在感を持つようになっていくあたりが。
 それは二人の会話のなかでもそうであって、冒頭からしばらくはヴァレンティンはモリーナの世話焼きをうっとうしがるし、その無知や社会性のなさを蔑視している。それが粗相とその看護を経由することによって(なにしろさし入れのとっておきの紅茶やシーツなどをモリーナはヴァレンティンに与えるのだし)、次第に愛に変容していく。それはヴァレンティンの教条的な思想が溶けていって、現実の生活に基盤をもつ知恵にとってかわっていくことと並行しているのだろう。ヴァレンティンは「革命」という観念に殉ずる決意をもっているのだが、その観念的な「死」を献身的・無償の愛で克服していく。自分を変容させたモリーナのことをヴァレンティンは蜘蛛女と呼ぶが、それは「男を糸で絡め取る(P367)」から。
 軍事政権下の人権侵害という極限状態で、人の存在の可能性を引き出すには、未来への投射(フランケル「夜と霧」)とか愛(笠井潔「哲学者の密室」)などが提案されている。そのような可能性をなるほどこの小説でも感じはする。それはモリーナの釈放の前夜まで(映画での二人のキスシーンは美しかったなあ)。そのあと、尾行・監視されたモリーナは路上で死を迎え(ここも印象的な映像だった)、再び拷問を受けモルヒネ注射をうけたヴァレンティンは外に置いてきた初恋の人(マルタ)の夢を見る。愛の可能性もまた、現実の過酷さの前では、はかないものであるのかしら。モリーナの愛は受け入れられず、ヴァレンティンの愛は過去への追憶にある。収監されていた二人の愛はすれ違ってしまったのだった。ああ、モリーナの語る映画にはたしかハッピーエンドはなかったなあ。それだけに、「〈この夢は短いけれど、ハッピーエンドの夢なんですもの〉(P394)」という小説の最後の一文がせつなく、苦い。

  

 1979年作。方法(会話や報告書で小説を構成)と主題が渾然一体となった傑作。1985年には、エクトール・バベンコ監督により映画化。


(以下2017/8/20)
 「最期のヴァレンティンはマルタとモリーナを「愛する者」としてもはや混合していたのではないか」という指摘があったので、ラストシーンを再読。
 ここで明らかになるのは、1.ヴァレンティンはモリーナの死を新聞で知る。2.お袋に問われて「おれのせいだ(略)願わくば満足して死んだのであってほしい」と答える。3.監獄の拷問が厳しくなる。4.警察医がモルヒネをうって幻覚を見ている。(当然1と2は当局の作戦であって、お袋経由の情報が警察を3のように動かした)
 幻覚の中で獄中では全く思い出すことのなかったマルタをヴァレンティンは思い出す。その契機になったのはモリーナの死であるだろう。マルタを回想するのはヴァレンティンのモノローグにおいて。それまでヴァレンティンは体調不良などで夢うつつになったときに、モノローグを語る。そこに出てくるのは自分におきたことだけ。幼児のころや家族のことや革命運動のことや弾圧を受けたこと。たいていは悪夢になり、挫折や恐怖が甦る(うつやパニックの反映であるとすると、そうなるのはしかたがない)。最後のモノローグではマルタが登場し、ヴァレンティンにことばをかける。このようなモノローグ(ダイアローグにはならない)をするようになったという点で、ヴァレンティンはモリーナの影響を受けている。実際に、ヴァレンティンの語りのとりとめなさや細部への執着というところはモリーナそっくり。マルタにモリーナのセリフを語らせているところ(自分は発見できなかったけど)あたりは、幻覚のなかのマルタもモリーナの影響を受けている。
 そのマルタであるが、さて、これは過去にヴァレンティンがつきあっていた時のマルタを再現したものであるのか。そう思えないのは、ヴァレンティンがマルタとの懐かしい記憶を思い出さないのと、もうひとつヴァレンティンの言い草を全面的に受け入れ肯定しているところ。たとえば上記のように「願わくば満足して死んだのであってほしい」とヴァレンティンが語るのに対し、「あたしは、自分から殺されたんだと思うわ、そうすれば映画のヒロインみたいに死ねるもの、絶対正義のためなんかじゃないわ」とヴァレンティンの責任をむしろ回避させるような返事をしているところ。あるいは「あなたが彼女に何をしたか、あたし知ってるわ、でも焼きもちなんか焼かない、だってあなたはもう二度と彼女には会えないんだもの」というところも。そうやってヴァレンティンが自分の行動を正当化することをさらに補強する役割を果たしている。だから、ヴァレンティンは「これでもういい、十分に休んだ、食い物は平らげたし、眠ったから、体に力が戻ったよ、いつもの闘いを始めるのを、仲間が待ってるんだ」と「革命」に復帰することを宣言する。アルタはその決意を全面的に肯定する母性の象徴になっている。
(それに続くのは「〈聞きたくないわ、あなたの仲間の名前だけは〉、マルタ、ああ、どんなに君を愛してることか!これだけが君に言えなかったんだ、おれはそれを君に訊かれないかと心配だった」であって、革命や蜂起の前では、マルタの存在はより小さく、革命や蜂起の秘密はマルタにも明かせないほどの重要事項なのであった。)
 こういう革命や蜂起などを人生や自己の目的にする人々はヴァレンティンだけに起こるのではなく、過去に多数の人が罹患している。革命のかわりに、宗教・国家等の観念にとらわれた人々も多数。このブログでも「神々は乾く」「人間の条件」「テロルの現象学」「賢者の石」「神狩り」などで、そのような人々をたくさん見てきた。あいにくヴァレンティンもそういうひとり。1970年代の中南米の軍事政権は独裁・監視国家を作ったわけだが、そこにはゲリラや革命家もいて、厳しい弾圧を受けていたので、ヴァレンティンにおきたことは特別ではなかった(ナチス時代にも、スターリン時代にも、この国の戦前にもあった)。
 なので、ラストシーンのモノローグを再読して感じたのは、革命家ヴァレンティンは変わりがねえな、男性優位の視点を越えられないし、愛より革命を目的にするのはあいかわらず。こういう男の身勝手さがあって、その正当化にモリーナやマルタ(お袋でさえも)利用している。懲りねえ、野郎だな、と嘆息してしまう。他人を目的ではなく手段として扱うのは、革命家ような観念に取りつかれた人には良く見られること。
(ただ、拷問で心身衰弱(おそらくその後死亡)した状態にあるのは、斟酌するけど。拷問反対、不当逮捕反対は、この小説の「愛」の主題のそとにあるので、ここでは検討しない。)