odd_hatchの読書ノート

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アレッホ・カルペンティエール「失われた足跡」(集英社文庫)

 1953年作。物語の進行は単純なのにとても読みずらかったのは、時間がさまざまに入り乱れているところ。とりあえず、場所を手掛かりにストーリーを見てみよう。情報を詰め込んだ圧縮された文章で書かれていて、読むのに時間がかかった。細部を忘れているので、間違いがあるかも。
ニューヨーク: 語り手の「わたし」の現状。役者の妻との倦怠感のある都会生活。
ラテンアメリカのある首都: 「器官学博物館長」の招きでホテルに滞在中、クーデターに遭遇。一週間ほど軟禁状態に。
サンティアーゴ・デ・ロス・アギナルドス: 自堕落と夫婦関係の問題から逃れるために、原始部族の楽器採集旅行に参加。ここは首都から数時間離れたところにある村だったような。占いをするムーシャという女が旅に連れ添うことになる。
プエルト・ブエルヒト: そろそろジャングルの入り口あたり。原始部族の娘ロサリオと出会い、目的としている楽器の採集に成功する。
プエルト・アヌンシオン: ここで「先行者」やペドロ師の話を聞く。ムーシャとの関係が悪化して、ムーシャは脱落。
ギリシャ人兄弟の鉱山: ギリシャ人ヤネスの鉱山を経由。
原始的なインディオの村: さらにオリノコ河の上流へ。樹木についたVj字型の印を見つけて、「先行者」の作った村に入ることに成功。激しい嵐にあい、眠っている間に村に到着。
サンタ・モニカ・デ・ロス・ペナードス: ロサリオとの蜜月。ペドロ師のミサ。「先行者」による村作り。天啓が訪れ「わたし」はオラトリオの制作にとりかかる。ハンセン氏病患者による村の騒乱。

 ストーリーは秘境冒険小説をなぞる。アマゾンの原始部族との邂逅やその生活の記述はレヴィ=ストロース「悲しき南回帰線」を思い出すことになる。音楽家なので、部族の習慣や風俗には無関心で、もっぱら音楽と女のことを考えているのがいかにもスノッブらしい。類似はそのくらい。
 ここには複数の時間がある。最初のレベルは、物語の手記に記載された<現在>の時間。そこに遡行する時間があって、これはおおまかに二つあるとみてよいかな。ひとつは西欧の時間。音楽家現代の音楽を考えているのが、旅の進行に伴ってしだいに昔の音楽に批判的に魅かれていく。ストラビンスキー、ベートーヴェン(第9交響曲を第2次大戦前の自分の時間と重ねて思い出す描写はみごと)、パレストリーナグレゴリオ聖歌とたどっていく。さらにさかのぼって、自身が初めて創造的な音楽を原始部族の生活から見出していく。ああ、さらに西洋の文学史を遡行するのを見てもよいのかな。重要な文書はギリシャ人のもつ「オデュッセイア」だ。そのセイレーンの歌声も「わたし」の音楽にこだましているだろう。もうひとつは、人類史的な歴史で、首都―地方都市−村―集落―原始部族の村と遡行するごとに社会の過去を見出していく。古代から石器時代にまでいたる15万年間を場所を移動しながらたどっていく。三つ目に、ロサリオの愛の生活や嵐の中の船旅のような無時間。一瞬が永遠になるような至福と恐怖のエゴが無くなる時間。
 そういうさまざまな時間がランダムに現れて、それが読者の幻惑につながる。
 面白いのは、「わたし」は都会の生活と夫婦の関係にあきあきしていて、近代を大いに批判するのだが、密林の旅において現れる「自然」や「原始部族」を共有ないし理解できなかったこと。端的な例は、近代や都市に帰るまいという決意のもとに、彼の創作欲がいや増すのだが、その音楽は五線紙に記載され、職業音楽家が解読して演奏しなければ音になることはない。それらがない社会においても、「わたし」が近代の欲望を体現するという矛盾、というか倒錯。インテリやスノッブの根っこ(むしろ根っこのなさ)を見出せるだろう。
 だから彼を捜索するためにきた飛行機に乗ることは彼の取引になる。あいにく、都会と近代は「わたし」のような反近代を選択したものを受け入れることができずに、「わたし」は徹底的に糾弾される。そのうえで再び「サンタ・モニカ・デ・ス・ペナードス」の入り口を見つけようとするが、それは閉ざされていて、さらには「あなたの妻」であるロサリオが別の男の子供をはらんでいることを知る。まあ、都会=近代からも、「自然」「原始部族」からもはみでてしまうわけだ。「この世の王国」はあっても、そこからは疎外されているというわけだ。おそらく天啓を受けて書き進めたオラトリオも完成することはなく、ロサリオの手元の草稿は燃やされ、「わたし」は書きなおすことはできない。幻滅が残るだけ。(密林で布教活動にいそしむペドロ師も、村の掟と衝突し、惨殺され、カヌーで下流に流される。村は近代とか都市とかを拒否しているのだね。)
 それと対照をなすかのように、オノリコ河の周囲にある密林とそこある生(必ずしも人間だけではない)のきらめきが眩い。とりわけ、ロサリオと「先行者」の存在。
 でも、原始部族や密林がユートピアかパラダイスかというとそうではない。それがあらわになるのが、ハンセン氏病患者の扱いについて。病を発症し、外見の崩れた男は村を追放される。食事の供給くらいはあったが、村に来ることは禁忌。しかし、長雨で食べ物を消費しつくした患者は禁忌を破って村に侵入し、そのうえ少女を強姦する。法やステートのない社会では、罪に対しては即座に復讐しなければならない。山狩りに参加させられた「わたし」は、患者を発見し、銃で撃つように命じられる。照準のさきにある患者の困惑した顔。「わたし」は撃てない。それは、法と国家の社会では称賛される行為。でも、その村では、村の掟を破る重大な規律違反になる。「わたし」の理性とか自我は、原始部族や密林において、自己矛盾を露呈するし、村の掟に逆らうことになる。逃げてきた都市や近代に引きずっていたものが、彼の理想やロマンを裏切ることになる。
 最後に、村に復帰するためにオノリコ河を遡ろうとするが、村の入り口を発見できない。川の増水が印を隠したのだが、その象徴することは都会や近代にあるものにはとても苦々しい。
 ガルシア・マルケス「戒厳令下チリ潜入記」(岩波新書)の主人公の映画監督は変装して軍事政権下チリに潜入するとき、この小説を携えた。あの時代のあの場所では、この小説はリアリズムそのものだったことに驚愕する。