odd_hatchの読書ノート

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吉本隆明「マルクス」(光文社文庫) 「経哲草稿」から見るマルクスの可能性。国家が幻想であるように「労働者」「資本家」も社会的な実在ではない。

 1964年に出版されたものを2006年に文庫化。著者は1924年生まれなので、40歳のときのものか。

マルクス紀行1964 ・・・ マルクスの思想は、3つのカテゴリがあってそれぞれが連関している。ひとつは、現実的なものとしての<自然>哲学。エピクロスから始まる彼の思想のもとはここ。二番目には象徴的なものとしての市民社会、および経済学カテゴリ。三番目には幻想的なものとしての宗教、そして法、国家。まず<自然>哲学では、エピクロスの霊魂への親近感があって、人間がほかの動物と異なるのは自然を「非有機的身体」として(あるいはしてか)、人間が有機的自然になりえないところ。この関係が「疎外」というわけ。生命活動ないし認識活動そのものが、他の動物と一線を画す矛盾の存在であるわけだ。でもって、その矛盾は人間の認識構成にもあって、自分の本質を対象化し、この対象化した本質を、ふたたびじぶんの対象にするという過程がある。自分の本質を自分の外に投げ出し、その投げ出した本質を自分の中に取り入れる(P44)。宗教でいうと、人間は無限の存在であるという本質を外に投げ出し、それが「神」になる。投げ出した「神」を自分に取り入れると、それは自分とは別ものであると認識して、投げた本質と取り入れた本質が矛盾しあうということになるのかな。近代は市民社会を作ったが、それ以前の社会だと王が投げた本質と取り入れた本質であったわけだが、近代市民社会だとそういう矛盾を受け入れる社会存在はないので、「国家」や「法」を幻想的にでっちあげて、取り入れた「本質」であると思うようになる。図式化すると、人間はその本質の象徴として「市民社会」を構成したが、それは同時に「疎外」するものとしての「法」や「国家」を幻想的に作り上げる。これは宗教や国家だけみられるのではなく、自然に関与する「労働」においても同じであって、労働する人間は「労働者」という象徴と作り上げ、その「疎外」するものとして「資本家」も幻想的に作り出す。重要なのは「労働者」も「資本家」も社会的な実在ではない。「労働者」が「資本家」になることも、その逆もありうる。いずれにせよ「労働者」階級が実在するわけではない(ここはロシアのマルクス主義者とはまったく異なる考え)。このような考えが20代前半にはすでに確立していて、後年になると象徴的なものとしての市民社会と商品の交換の解明に注力することになる。

マルクス伝1964 ・・・ マルクスの生涯を略述し、その思想をみる。ここでも「マルクス紀行」同様に、3つのカテゴリーが生涯を通じて問題にしていたことを説明する。国家と市民社会は矛盾した対立にあるから、人間は市民社会にあるときは現実的な生活人でありながら人間の本質としては存在できず、政治的国家の一員としては普遍的な幻想としてしか存在しえない。個々で国家は<法>によって二重となって現れるという興味深い指摘があるが割愛。市民の生活と活動は社会の中で職能的な特殊化を意味しているので、そのような職能的な特殊人に適合することで人間の本質から離れていく。そういう具合に人間は社会と国家から「疎外」されることになる(P93-96)。同じく、自然との関係においても相互に対象化するという関係が「労働」として存在するようになり、労働の結果現れる生産物の<価値>を生み出すのであるが、生産物と<価値>は人間のあちら側に現れてしまう。そこで人間は自然から「疎外」されてしまう。ここらへんは後期マルクスの「労働価値説」の説明だが、その大本はわかいときの<自然>哲学から導き出されたもの。

マルクス年譜ノート1964 ・・・ いくつかのマルクス伝からの抜粋。著者はよい編集者でもあった。
ある感想1964 ・・・ 初版「マルクス」のあとがき。

カール・マルクス小影1950、ラムボウ若しくはカール・マルクスの方法に就いての諸註1949 ・・・ 若いころの論文。


 まあ自分の要約を参照するより、中沢新一の解説を読んだ方が「マルクスその人」を思想を形作る「三位一体」、「ボロメオの輪」を理解するのに役立つ。自分がなかなか「三位一体」を理解しえず、要約を試みた後でも判然としないのは、マルクスの<自然>哲学がなかなか理解しがたいものであるからだろうな。自分にはどうしても自然や歴史を科学の知識や成果でもって眺めるというバイアスがあるので、マルクスの<自然>を自分に引き付けることができない。人間が動物とは異なるユニークな種であるとか、エピクロスの「霊魂」の議論を踏襲するところとか。
 もうひとつの躓きは、ソ連マルクス主義の読み方をここに導入しようとして、ひっかかるということ。ソ連マルクス主義マルクスその人の思想とは無縁だというのはわかっていても、労働価値説とかプロレタリアートの実在とか、そう簡単には抜け出せない俗流理解が自分に沁みついている。それがこの本を読むときのひっかかりになる。
 まあそういう自分のだめさとかバイアスを棚に置いておくとしても、ここに書かれたマルクスはとても刺激的。上の要約ではマルクスその人の「疎外」をまるで理解していそうにないだろうが、すくなくともソ連型や俗流マルクス主義文献から導かれないもの。でも、こちらの「疎外」のほうがこれからの社会や世界の認識には有用だろう。少なくとも市民社会の階級をひとつにまとめたり、権力を労働者階級が奪取したりすれば、共産主義国家が誕生するとか、そういうバカげた議論を一蹴できるからね。とはいえ、では代替は何かといわれるとそれもまた困難。安易な展望を提示するのも自分のバカさを表すことになりそうだ。