odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

柄谷行人「マルクス その可能性の中心」(講談社文庫)

 タイトルの論文は1974年に雑誌連載。そのあと改訂されて1978年に単行本化。自分の初読の1980年代半ばには「差異」「テキスト」「貨幣と言語」というのは人気のあるタームになっていて珍しくもなかったが、雑誌初出のころを考えると先進性がすさまじい。なにしろ巷にあるのはロシア型マルクス主義(前衛党が労働者を指導して革命へ、資本主義の没落から社会主義への転換は歴史的必然、労働者独裁国家ができればすべての問題は解決みたいな)か、初期マルクス(「ドイデ」「経哲草稿」)の持ち上げか、ユーロコミュニズムまたは民主組合経営みたいな人間の顔を持つ社会主義か、そんな類の議論しかなかったのだから。遠近法的倒錯を使えばそこにはマルクスのテキストが不在だったわけで、そこに現れたこの論文が新しかったといえる。

マルクスその可能性の中心 ・・・ このいくつもの論点が圧縮された論文をまとめようというのも無謀な話。でも抜き書きをすると、
1)「商品は、人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態(P14)」で、商品は単独で使用価値、交換価値を持つのではなく、価値体系(示差的な関係)において価値が生じる。複数の商品の相異なる使用価値の関係から価値が出現する。まあ商品が自分自身では商品になれず、他の商品との差異の関係で商品であることができる、あたりかな。
2)商品の価値は貨幣があるから(多数の人々がつかう経済圏があるから)生じる。その貨幣が資本になるのも、貨幣(G)―資本(W)と資本(W)―貨幣(G)に転化する過程が時間と場所で切りはなされているから。そのような商人資本は互いに隔たった相違なるシステムの間に存在する(昔の交易商人や海運問屋を思い起こせばよい)。
3)同じく産業資本も世界市場が成立する中でおいて成立する。その時にキーになるのは剰余価値で、労働時間の増加でもって量られるのではない。労働の生産性の上昇が労働力の価値を潜在的に下げるが直ちには顕在化しない。現存する体系とポテンシャルな体系があってその差異が剰余価値になる(時間の差異が価値に転化するわけかな)。まあSEの能力があがったからといって、すぐ販売価格や給与に反映するわけではないから。あと、恐慌は、貨幣形態がおおいかくしていた価値形能を露呈させ、価値の関係の体系が一瞬解体されるから、資本主義分析で重要なできごと。
4)こういう差異の体系は、階級でもみることができる。階級は経済的な共同性だけでは成り立たない。「階級が階級としてあらわれるのは、まさに党派、言説を通してである(P101)」。このような読みは「ブリュメール十八日」に詳しい。
5)人間と動物の違いは、身体的組織化の欠如(=遅延化)によって生じる関係を人間がもつところ。差異や遅延があるから、自由や主体が生じる。
6)「マルクスの「思想」は、テクストを読む彼の方法にこそある。(P84)」「われわれが考えるのではなく、言語が考えさせる(P122)」「本来疑わねばならないのは、主語と述語、意味されるものと意味するものという二分法それ自体(P126)」。あたりがマルクスの方法の注目すべき点かな。あと、マルクスが亡命者として異国に生きるものであったところ。
 このあたりが自分の理解できそうなところ。それ以外にも重要なことが書かれていると思うが、自分には読み取りきれない。まあ、蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るそうだから、のろまで愚図な蟹としての自分の穴をこうして残しておくか。
 マルクス主義にしろ実存主義にしろ、「主体」「私」のことがうるさく問われていて、どうにもうっとうしいところがあった。そこに、ここに書かれているような「価値」はそれ自体が持っているのではなくて、貨幣や言語のような互いに示差的な体系の差異から浮かび上がる、というか差異の間に仮構されるのだという考えは、とても風通しを良くしてくれた。たんに価値や商品だけでなくて、言語、数、階級みたいな別々のカテゴリーでも同じ差異による意味や価値の成立がみられるというのも。そういう考えの先駆であるのかな。


歴史について――武田泰淳
階級について――漱石試論I
文学について――漱石試論Ⅱ
 以上3編は、作家を語っているのか、著者の思想を語っているのか、どうもよくわからない。緻密に読んで、しっかり分離精製しなさいということなのだろうが、手に余る。思想のところは、上の「マルクスその可能性の中心」に重なるところが多いので、重複しないとなると、さて何を取ればよいのだろう。